中国国際放送局 日本語放送開設六十五周年
心からお祝い申し上げます。心からご苦労様と尊敬と感謝を捧げます。六十五年の歳月は実に永く、多事多難の日々でした。その間如何なる困難の中をも、一貫して姿勢を崩すことなく、便りになる親の如く、厳として又、優しく、現象世界の底を絶えることなく、流れ続けて今日を迎えたことは、何と偉大なことでしょう。私は今日九十五歳の老婆ですが、北京放送との関わりを書くことによって、感謝の一端とさせていただきます。
私が最初に北京放送の存在を知ったのは、確か五十五歳の頃だったと記憶しています。太平洋戦争が終り、戦争で疲弊した日本が経済的に立ち直り、世の中が派手になり、猫も杓子も、金、金、金と金を獲ることが、人としての幸福、尊敬、自由とつながり、真実と愛と正義などは、一笑に付されるような世の中になっていくのでした。そんな世の風潮の中で、夫を早く失い、一人の男児を育てる私は、ポツンと世の中で孤立したかのようでした。が、ある日、ある人に連れられて訪れた岡山市の小さい町の片隅に「中国を知る会」と、墨痕鮮やかな看板をぶら下げた事務所風の小さいな建物。ガラリと表のガラス戸を開けると、土間の上に机を置き、椅子に腰をかけている一人の痩せた老人は、皺の寄った顔に微笑を浮べて、私を優しく迎えてくれました。私はこの老人の風貌を見た一瞬、何か、心が救われるような感じを受けました。老人は、しわ枯れた声でとつとつと、北京放送を知っているか?と問いかけ、私が首を横に振ると、とにかく、北京放送を聞けを云うのです。そして、中国の全貌を知るには先ず、北京放送からだと色々訓えてくれました。私は二時間ばかり訓えられ、帰途、電気器具店に立ちより、弁当箱ぐらいのラジオを買いました。その夜、あの老人、Mさんから貰った。北京放送局のプログラムにより、第一声を聞いたあの一瞬の感激は、私にとって、忘れぬものです。
何よりも驚いたことは、アナウンサーの美しい標準語、アクセントの柔かい、東京弁でした。岡山弁まる出しの私にとって、外国の方がこれほどまでに洗練されたお声、そして内容の高潔さ、私は北京放送に引かれていきました。毎日、聞くうちに、ニュース、音楽、文学、歴史、その他もろもろの中国の産業や社会情勢など、知り、大変物識りになりました。また、北京は日本の実情に就いてもよく知っているのに感心しました。
日本は現在、高齢化が進み、私も九十五歳という大長寿を得て、人間長寿を得ることの大勉強に、勤しんでいます。若い日には理解し得なかった。人間心理の底辺に潜んでいる意識を解明してあげると、思いがけぬほど、病気が癒り、運命が好転し、子供の悪癖が消えたり、性格が明るくなったり。苦労して、長寿を私の人生も、満足、無駄ではなかったと、微笑しながら、日本の平和が永からんことを祈り、且つ、色々と訓えて頂いた北京放送を始めとして、周りの友達から、学んで身に付けた財宝を多くの人に惜しまず栄えたいと念願してて、生き永らえています。全身に疼痛はなく、頭も呆けてはいません。北京放送と共に世界平和のために、祈り且つ奮闘いたしましょう。
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