私と北京放送
65周年おめでとうございます。
私も現在65歳で、埼玉在住の主婦です。生前の父が北京放送を愛聴していました。脳梗塞で入院するまで一人暮らしを支えてくださった北京放送は、私にとっても大切な存在です。父が若い頃、身重だった母親と中国へ渡ったのは1940年のことでした。天津に住む知人の牧師を手伝う為です。軍国主義で軍人が威張る日本を嫌った父らしい選択でした。私はその年の12月末に生まれました。
65年前の天津は不衛生で、慣れない生活の中、私たち親子はあらゆる病気をしたらしいです。父の仕事の関係で北京にも住みましたが、戦争が始まり、父も現地召集になり、母子3人は1944年、中国の友人の勧めで帰国の運びとなりました。こうして無事日本へ帰ってこれらのも中国の友人のお陰と聞いております。
父はにわか兵士で、運動苦手な上胃弱と、軍隊で役に立つ分けなく、すぐ流行り病で下痢に見舞われ、足腰立たずに日本へ送還されてしまいました。搬送先の熊本の病院へやせ細かった父に面会に行ったのですが、その骸骨と皮のような恐ろしい顔に、思わず母の後ろに隠れてしまった事を憶えています。(今、思えば横たわり眼鏡をはずしていたので、久しぶりに会った父は別人のようだったのです)後に、父の所属した部隊は、シベリアに行って捕虜になり、飢えと寒さで殆どの方が亡くなられたことを何かの記事で知りました。
当初の帰国先、父の実家福岡は、近くに旧八幡製鉄工場があったため、空襲で毎日怖い思いをしました。その後、母の実家へ非難して住みましたが、よそ者には居心地が悪かったのか、いつも父から中国での良かった事ばかり聞かされて育ちました。あの戦争さえなければ、父はずっと居たかったでしょう。
母が入院し、以後父の一人暮らしの寂しさを支えてくれた北京放送。母が亡くなって父も入院、私もふるさとに帰ることとなり一人北京放送を聞いた時、孤独な父にとって心の友だったことを実感しました。私も、中国語と音楽番組が好きで、夜、枕元で、父と同じように聞いたものでした。
今、父も亡くなりましたが、きっと天国で北京放送の楽しい番組を聴いてくれていると思います。私の住む埼玉では北京放送が受信づらいため、現在は北京放送のホームページを閲覧しています。充実した内容でとても楽しく、中国語の学習に役立てております。台湾に住む娘にも教えたところ、とても喜ばれているようです。親子三代応援しております。これからも、中日友好の架け橋として楽しい番組を続けてくださる事を祈っております。
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