私と北京放送
先ず冒頭に今は亡き妻と共に、激動と困難の65年、まさに中国人民の勝利の賜物と開局65年の祝賀おめでとうの言葉を、心から贈らせていただきます。
私は1943年郵政員として採用され、青年職員教養に参加、新中国建設後最初に中国を訪れた三人の内の一人、帆足計衆議院議員先生から2時間ほど中国事情の講義を受け、始めて聞く中国の話、正直最初はあまり興味がなかったが、温和な中に情熱を込めて話す先生の、特に「今新中国建設は始まったばかり、大きく立ち遅れているこの国は、物凄いエネルギーを持っており、毛沢東を中心に指導者たちは、必ずその存在感を発揮する、竹のカーテンと云われ、社会主義国の情報は少なく理解しにくいが、日本の誤った侵略戦争を反省し、若い諸君はぜひ隣国中国に関心を持ち、友好を進めてほしい」講義が終わり、次第に若い私の脳裏中国のイメージを焼き付けられ、今考えてみると私の日中友好運動の原点は、この頃かなと思われる。ある夜、性能の悪いラジオから、波の揺れるような微かな日本語放送が聞こえ、耳を押し付け叩きながら聞いて北京放送からと知り驚きました。そして、労働組合や社会党の地方役員として活動を続ける中から、上田日中友好協会に加入「人民中国」を通じ中国の片鱗を知るにつけ、私の日中運動はより積極になり、上田日中友好協会の役員、県協会の役員として活動に取り組み、経験を積む度に数多くの中国友達との交流を深まりました。たまたま北京放送局の旧い封筒が何通か見つかり、その日付けによると、80年代前後から「紅白歌比べ」に応募するようになり、正月の三日間、夜は妻も一緒になって聞きづらいラジオを叩き、議論しながら採点を楽しみ応募しました。また中波の電波にはイライラの連続、無理を承知で苦情めいた受信報告を何回か送り、皆様も苦労された事と推察します。切り絵も一つの魅力でした。
時代と共にホームページを見る事ができ、ラジオと違って写真の魅力、ニュースや各分野の記事が読める利便、中国が一段と身近になり、楽しみも倍増しました。
86年3月私は40年近く勤めた郵政職員を退職、これを機会に永年苦労を共にした妻を是非中国へと、半ば強制的に「長野県日中友好協会訪中団」に参加、夫婦揃って各地でお世話になりました。妻はそれがきっかけで凄く中国が好きになり、また行こうと逆にハッパを掛ける始末、この時とばかり郵政退職者に働きかけ、訪中団を纏める事に成功、小さな団でしたが10回程中国各地を訪問、大変お世話になり友好交流を深めました。世話になるばかりが能でないと、丁度宝の持ち腐れとなっていた蔵書「日本の美術250冊」寄贈する事を思いつき、前中日友好協会理事の王慶英さん、張利利さんのご協力を得て、中国人民対外友好協会のご賛同を頂き、2000年10月「中国友好平和発展基金会」を訪問贈呈式を行い、秘書長?東先生から感謝状を授与する栄に浴し、決意も新たにと思っていた矢先、運命は思わぬ結果となり、これが私たち訪中最後になるとは、北京に夫婦で六回も訪れており、その都度放送局の近くを通りながら訪問ゼロとは?残念の一語に尽きます。
開局65年を機に、北京放送日本語部の更なる発展と、皆様のご健勝ご活躍を心からご祈念申し上げ、お祝いのレポートとします。
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