北京放送と私
1988年のある夜、ラジオをいじっていたら「こちらは北京放送局です」に続いて、「やさしい中国語」(曙光講師)、「応用中国語」(陳真講師)の電波が飛び込んできた。
ちょうど、広州の友人に毎週日本語の「話しことば講座」(NHK)をテープにとって送っていたこともあり、「ことば」というものについて関心が高まっていた。折りも折り、飛び込んできた中国語の響きで関心が増幅されたのはいうまでもない。中国語講座は続けて聴講した。番組の終わりに東京でのスクーリングの案内があった。
スクーリングは「北京放送を聞く会」が主催で、代々木の青少年センターで2泊3日だったと記憶している。北京から数名の日本語部アナウンサーが講師として来日され盛況だった。ナマの中国語に接した初めての体験である。
北京放送を聞く会に入って日本語部との交流が始まった。聞く会は月例会やスクーリングのほかに毎年訪中団を送っていた。90年6月の第12次北京放送を聞く会友好訪中団(21名)に参加した。9日間、北京、西安、南京、上海を訪ねた。案内役は局の外事処と日本語部のメンバーだった。行く先々の放送局では、国際局のお客様というわけで歓待され、一般のツアーなどでは味わえない贅沢な旅だった。僕にとって、北京放送が取りもつ初めての訪中である。
何度かの訪中で強く印象に残っているのは江南の旅である。30名からなる大訪中団で、上海、蘇州、無錫、杭州を訪ねた。お天気に恵まれず、中でも杭州ではバケツをひっくり返したような土砂降りにあった。以後の旅行でもよく雨に遭うことから、すっかり雨男にされてしまった。今でも顔を見ると雨男が来たといわれている。話がそれたが、訪中のたびかならず北京放送局に立ち寄るのだが、江南の旅はコースに北京が入っていない。僕は北京放送を聞く会ニュースの取材をするため、北京経由で帰ることにした。
その年95年は、92年から建設を進めていた新局舎ができあがって、年末に引っ越すことになっていた。旧局舎は中国建国十周年の十大建築のひとつで、人民大会堂と同じ年にたてられた意義深い建築物である。住み慣れた、由緒ある局舎を離れなければならない。その辺りの思いを、長年勤務されている何人かの方に訊ねようと思ったからだ。
4人の方から話を聞くことができた。40年近い歴史を懐かしむ気持ちと新しい局舎に対する期待とが入り交じったインタビューとなった。
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