内山書店と中国〜変わらぬ絆と新時代の交流物語(前編)

2024-10-03 21:06:57  CRI

  

上海内山書店の旧跡・2024年5月撮影(写真:視覚中国)

 1917年、上海の魏盛里(現在の上海市虹口区四川北路1881号)にある小さな書店が開店しました。店の名前は、「内山書店」。これは、日本からの出張員として上海を拠点に目薬の行商を行っていた内山完造(1885〜1959)が、上海で留守番をする妻・美喜子のために自宅の玄関先に作った店でした。当初は、日本人クリスチャン向けのキリスト教書籍を売っていましたが、取り扱う分野は日本から取り寄せた日本語の書籍や地元で出版された中国語の書籍へと広がり、中国人の書店では規制で販売できなかった進歩的な書籍も多く扱い、規模は拡大していきました。 

 当時は日本による中国への侵略と植民支配の真っ只中でした。しかし、完造は中国人客に対しても対等に友好的な姿勢で接し、その人柄が高く評価されていました。そんな完造は後に、田漢、郭沫若、魯迅、郁達夫など、多くの中国の文学者や文化人と厚い信頼関係で結ばれ、彼らの命が危険にさらされた時には、かくまう場所を提供したり、海外への逃亡を手助けしたりしました。                            

1933年5月 魯迅と内山完造(写真提供:内山籬)

 また、上海を訪問した谷崎潤一郎、佐藤春夫、金子光晴ら日本の作家たちも内山書店を窓口に、中国の文化人たちと出会い、交流を深めていきました。店内で開かれた「文芸漫談会」を通じて中日の文化人に築かれた絆は、新中国になってからも続いていきました。内山書店はまた、魯迅の著書・編著の代理発売元として、魯迅文学の日本語翻訳や、日本での出版にも深く関わり、近現代の中日文化交流史における重要な一ページを書き残しました。

 一方、完造の影響を強く受けた末の弟である内山嘉吉(かきつ)(1900〜1984)は、1935年に東京で同名の書店を開き、中国輸入書を専門に扱っていました。上海にある内山書店は日本の敗戦後に閉店しましたが、東京内山書店は現在も神保町すずらん通りで営業を続けています。開業者の嘉吉と妻・松藻(まつも)の代を経て、1978年には三男の籬(まがき)(79歳)に、2017年からは孫の深(52歳)へと受け継がれています。

東京内山書店、店名の四文字は文豪・郭沫若氏の直筆(写真提供:内山深)

 中国では一度は閉店してしまった内山書店。しかし、2021年7月、東京内山書店の名称使用許諾を得て、「内山書店」の1号店が天津で開店しました。これは、天津出版伝媒集団が運営するもので、同系列の店は現在、天津、深センと合わせて4軒に上り、来年初めには北京で5号店の開店が予定されています。

2024年6月、中華図書特殊貢献賞受賞式で北京を訪れた内山籬さんと深さん

 まもなく迎える新中国成立75周年を前に、現在、内山書店の会長を務める籬さん、社長の深さんらに話を伺いながら、内山家で代々受け継がれ、同時に、絶えず新しい章を書き加え続けてきた中国との交流物語について振り返ります。

■取締役会長・(父)内山籬さん 「歴史をつないでいくことは私の任務」

2024年6月、内山籬さん 中華図書特殊貢献賞受賞式の会場にて(写真提供:内山籬)

 上海内山書店創業者の甥で、現在はその取締役会長を務める内山籬さんの元に、この5月、中国から本人曰く「たいへん驚いた」知らせが届きました。それは、第17回中華図書特殊貢献賞の受賞を知らせるものでした。籬さんはインタビューでそのときの胸中を明かしてくれました。

 「この賞は私自身にというよりも、100年余り前に上海で内山書店を作った私の伯父、内山完造夫婦、そして1935年に東京で内山書店を作った私の父、内山嘉吉夫婦に与えられたものと受け止めています。その歴史をつないでいくことが私の任務です」

■赤いハンカチを目印に 内山兄弟が上海で初対面 

1929年の上海内山書店(写真提供:内山籬)

 「かきっつぁん」――完造は、彼の弟であり、籬さんの父である嘉吉をこう呼んでいました。

 内山兄弟は岡山県後月郡芳井村(現・井原市)の生まれ。完造は7人きょうだいの長男で、嘉吉は末っ子。二人の間には15歳の年齢差がありました。籬さんによると、完造は12歳で大阪へでっち奉公に出たのに対し、嘉吉は、4歳になる前に香川県丸亀市の叔父の家に養子に出されたため、兄弟の初対面は1927年の上海だったそうです。

 「嘉吉は美術や演劇が好きで、中学卒業後、美術学校に進学したかったそうなのですが、家の経済事情もあり、(その希望は)果たさずにそのまま就職しました。その後、先輩に呼ばれて東京に行き、成城学園小学部で美術教師として、子どもたちにデッサンや彫刻、木版画を教えていました。1927年の夏休みに、完造から『上海に遊びに来ないか』という手紙をもらって、初めて船に乗って上海に行きました。お互いに顔を知らないので、嘉吉が赤いハンカチを船上から振ることで分かるというような話だったんです」

 赤いハンカチを目印に、兄との対面ができたエピソードは、籬さんが子どもの時に父からよく聞かされた思い出話だそうです。嘉吉の上海訪問は、1927年夏、1928年夏と続きました。毎回、一度の訪中で1ヶ月ぐらい滞在していました。完造を通して、魯迅とも親しい交流がありました。3回目となる1931年8月の上海訪問の時に、中日の美術交流史に残る出来事がありました。

1931年8月22日、上海で開かれた第一回木刻講習会後の記念撮影。一列目の右から3人目が魯迅、その右が内山嘉吉(資料写真)

  1931年8月6日、上海内山書店内で嘉吉が完造夫妻と雑談していた時、日本からの郵便が届いて、その中に嘉吉宛ての「暑中見舞いハガキ」が3枚ありました。それは成城の五年生が版画で刷った暑中見舞いでした。嘉吉は夏休みに入る前に、授業で学んだ版画を使って、暑中見舞いを送るようにと宿題を出していたのです。それを見た完造と美喜が興味を持ち、どのように作るのかを尋ねたところ、嘉吉は版画の道具一式を上海に持ってきていたので、その場で実演してみることになりました。内山書店の奥で嘉吉が版画の実演をしている時に魯迅が来店し、興味を持って嘉吉のすぐ横で真剣に実演を見ていたそうです。

 そのころ、版画を使った大衆啓蒙活動を模索していた魯迅は、中国の民間で古くから伝承されてきた版画が衰退したことを惜しんでいました。そのため、自分でドイツやフランス、イギリス、ロシア、日本から版画を買い集めていました。1930年、完造の協力もあり、内山書店の近くの上海購買組合の二階で魯迅所蔵の版画展覧会を開催したこともありました。
 嘉吉の実演とその場で出来上がった版画を見て、魯迅は版画講習会の講師役を嘉吉に依頼し、自らはその通訳を買って出ました。13人いた受講生の中には、後に中国美術家協会会長になる人もいました。

 嘉吉は、受講生から「私たちの最初の版画の先生」として崇められ、1949年以降も交流が続いていました。受講生たちから近況報告の代わりに送られてきた多くの版画作品は、1975年に嘉吉が神奈川県立近代美術館に寄贈し、当時すでに600点にも達していました。そうした交流は、1984年に嘉吉が亡くなるまで続いたといいます。

中央美術学院版画系主任教授・李樺(1907-1994) 『木刻講習会にいる魯迅先生』(資料写真)

■完造は「父や母よりも大好き」

完造と弟・内山嘉吉さん(左)(写真提供:内山籬)

 内山完造は書店の経営の傍ら、日本人が真に中国を理解するために多くの著述を残し、講演活動も精力的に行っていました。1947年12月、敗戦とともに上海から日本へと強制送還された完造は、帰国後2年ほど、嘉吉一家と一緒に暮らしていたそう。ただし、帰国翌年の2月から、「中国漫談」の全国行脚に出かけ、17カ月の間に800回あまりもの講演を行いました。

 1950年秋、日本と中国の国交回復を目指して「日中友好協会」の結成大会が開かれた際、完造は初代理事長に就任。以降、完造は「日中の友好はまず中国を知るということであって、これが徹底こそ為さねばならんことである」を信条に活動を続けました。

 籬さんは、「両親が許してくれないわがままでも、完造は聞き入れてくれたから、父や母よりも大好きだった」と言い、今も子どもの時の思い出で鮮明に覚えていることがあるといいます。

 「講演旅行から帰って来る完造を、私が駅まで迎えに行くのですが、完造が列車から降りてきたのを見て、喜んで飛びついた瞬間に、腕が抜けてしまいました。腕は一回抜けると、何度も起こしてしまうらしいのですが、何度かそういうことをやってしまったぐらいに、大好きなおじさんでした」

 1959年春、中学2年生になった籬さんは、二人の社会科の教諭からある頼み事をされました。「ずっと上海で活動していたおじさんの内山完造さんに、中国の話を聞きたい」と。籬さんは、完造に書店で話をしてもらうよう取り次ぎ、その際に自身もその講話を聴くことができたそうです。籬さんはそれをとてもありがたい様子で振り返りました。なぜなら、籬さんの記憶では、その時、完造はすでに病によって講演旅行がほとんどできなくなっていたからでした。

1959年9月、日本を発つ前の内山完造(写真提供:内山籬)

 同年9月、完造は中国人民対外文化協会から療養の誘いを受けて訪中。旧友に囲まれながら、楽しく思い出を語らっていたレセプション会場で、脳出血を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。

 北京で大勢の旧友の見守りの中で告別式が執り行われ、荼毘に付され、遺骨は1945年1月に上海で永眠した妻・美喜子と共に、上海万国公墓(現在の「宋慶齢陵園)に納められました。墓石には、微笑む二人の写真と共に、親交のあった文学者で翻訳家の夏丏尊(かべんそん)による追悼の言葉、「以書肆為津梁,期文化之交互。生為中華友,歿作華中土(書店を懸け橋として、文化交流を期する。生きては中華の友であり、歿して中華の土となる)」が刻まれています。

上海・宋慶齢陵園にある内山完造夫妻合葬墓(写真提供:孫暁燕)

■「国の関係は個人同士の付き合いから」

 内山籬さんは1945年生まれ。兄二人と姉一人の4人きょうだいの末っ子。子ども時代は、当時は東京・神田一ツ橋にあった「内山書店」の2階に、一家6人で暮らしていました。自宅に出入りする時は、中国の本がびっしり並ぶ書店の中を通っていたので、「(生活に)密着しすぎていて、中国のことを意識することはほとんどなかった」と言います。

 籬さんは長兄と12歳も年が離れているため、高校に入った時、「兄たちはもう社会人で別の仕事をしていたため、家業を継ぐ人は自分しかいない」ということに気づいたそう。

大学は東京大学文学部に合格。家業のこともあり、第二外国語に中国語を選択しました。もっとも、高校時代から、内山書店の常連でもある東大の先生からは、「大学に受かったら、僕のところに来い」と前々から誘われていたのでした。

 中国での留学はできなかった時代でしたが、籬さんは実に聞きやすく、発音もきれいな中国語を話します。流暢な語学力を身につけた背景を尋ねると、東大で中国語を教えていた故 工藤篁教授や、個人レッスンで世話になったという燕京大学出身の水世嫦先生のことなど、恩師の名前を次々と挙げ、昨日のことのように彼らとの思い出を語ってくれました。

まだ東京大学の大学院に在籍中だった1968年、内山書店に就職。翌1969年、広州交易会に参加するため初訪中。その後も、交易会で幾度となく訪中し、そのたびに書店を巡り、当時の公の輸入ルートでは入手できなかった書籍を一生懸命に見つけ出しては日本に持ち帰っていたそうです。

 その後、社長に就任。その年1978年は、中国で改革開放が始まった年でもあります。籬さんは、中国と関わるようになってからの現在までの中国の変貌ぶりを、感無量といった様子で振り返りました。

 「私が中国に行き始めて55年も経ちます。この間の変化を見てきた自分としては、今の中国はまるで別の世界のようです。多様化され、経済的にも発展しているし、皆さんの表情も変わりました」

2021年7月10日、天津で行われた内山書店のオープニングセレモニー(写真・王衆一/人民中国)

 2021年7月、上海内山書店の営業停止から実に75年余りが過ぎた時、「内山書店」という看板を掲げた店が天津で開店しました。商標は内山家から中国での独占排他的使用の権利が与えられたもので、経営は中国側が独自によるものです。

 店を手がけたのは、天津テレビでドキュメンタリー番組を制作していたディレクターで、当時は30代後半だった趙奇さん(現在42歳)。海外書店のシリーズドキュメンタリーの撮影がきっかけで籬さんと知り合い、「内山書店を中国でもう一度」と構想を温め続けてきました。それを現実とすべく、2015年から場所探しから着手し、5年をかけて開店にこぎ着けました。その間、新型コロナウイルスによるパンデミックが起き、幾多の困難に襲われました。資金を集めるために自宅の売却まで覚悟したという趙さんの熱意は、「本物だった」と籬さんは言い、商標使用の依頼を受託した理由もそこにあると明かしました。開店が危ぶまれる状態にあった「内山書店」は、最終的に、天津市の支持を得て、天津出版伝媒集団により開店作業が進められることになり、趙さんは新たに設立された天津内山書店有限公司の総経理に任命され、今日に至っています。

2021年7月10日、天津内山書店オープニングセレモニーであいさつする内山書店の内山籬会長と内山深社長(写真・王衆一/人民中国)

 開店の日には、魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫の子孫らをはじめ、内山完造と親交のあった中国の友人の末裔たちが多く集まり、盛大なセレモニーが開かれました。当時はまだコロナ禍で国境を跨いだ移動がままならぬ中、籬さんと息子の深さんはビデオメッセージを送り、中国で新たに始動した内山書店に期待を寄せました。

 「中国人と日本人との交流を促し、相互理解という点で力を発揮していただきたい」

2024年5月、天津内山書店で開かれた大学生との交流イベント、中央が趙奇総経理(提供写真)

 天津内山書店の1号店では、開業3年の間に150回余りのイベントが行われ、人と人が出会って交流する役割がしっかりと果たされています。中国国内で内山書店の店舗数が増え、盛り上がりを見せる一方で、「中国で内山書店が開店したニュースは日本でもたくさん取り上げられていて、『中国で支店を出したのですね』とよく言われるようになりました。その都度、説明をせざるを得ないんです」と、籬さんは苦笑気味に話してくれました。

 「国と国との関係は、長い時間で見ていく必要があると思います。私は何よりも個人と個人の友人関係から発展していく、という内山完造の考え方を実行したいと思っています。または、日本人と外国人の関係というのは、それぞれ個人同士の付き合いからスタートすべきものだというふうに思います。政治的な関係がどうであろうとも、我々個人の友達関係が発展していけば、必ずや国と国の関係も良くなるはずであると考えております」

 未来をこのように展望する籬さんもまた、完造・嘉吉譲りのぶれない姿勢が垣間見えました。

(つづく)

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