『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』 執筆に寄せた思い ――上海交通大・石田隆至副研究員に聞く(上)

2023-09-27 16:44:25  CRI

 

 第二次世界大戦終結後、東京裁判やBC級戦犯裁判で多くの日本人戦犯が裁かれました。中国でも、日本が降伏した後の国民政府と、1949年10月の中華人民共和国成立後の新中国政府のそれぞれが、対日戦犯裁判を行いました。両者ともに十分に知られているとは言いがたいですが、特に新中国による戦犯裁判(以下、「新中国裁判」と表記)については、戦犯たちが収容中に反省を深め、自分の罪に向き合うようになった点に特徴があります。

 上海交通大学人文学院副研究員の石田隆至氏、明治学院大学教授の張宏波氏の両氏は1990年代末から、この新中国裁判の当事者へのインタビュー調査や史料収集に着手し、学術的な視点から研究を深め続けてきました。二人の研究の中間成果として、2022年12月に学術書『新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践』が日本の社会評論社から出版されました。

 一般的にもあまり知られず、学術的な研究もほとんどなかった「新中国の対日戦犯裁判」。著者たちはどのような心境でこの課題に取り組み続けてきたのか。9月11日、新刊出版を記念するために清華大学で開かれる交流会の出席で北京入りした、著者代表の石田隆至氏にインタビューしました。

 【背景】

 1956年夏に瀋陽市に設置された特別軍事法廷

 新中国は1950年以降、遼寧省の撫順戦犯管理所と山西省の太原戦犯管理所に約1100名の日本人戦犯を収容しました。1956年夏に瀋陽市と太原市に設置された特別軍事法廷では、このうち45人に有期刑判決が下されましたが、死刑や終身刑を言い渡された者はなく、懲役20年が最高刑でした。残る1000名あまりの日本人は起訴免除で釈放されました。

 これらの元日本兵らが帰国後、「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、中日の平和友好をライフワークとして活動し続けました。2002年、高齢のために会が解散した後も、健在の戦犯たちが個人として戦争加害証言を続け、内外のメディアにも発信するなど、最晩年まで活動を続けました。彼らの活動記録を保存するために2006年に設立された「NPO中帰連平和記念館」は、今も市民の手で運営されています。

■中国の実像を的確に捉える手がかりにしたい

――まずは、この本をまとめようと決意したきっかけを教えてください。

 現在、日本を含めた西側諸国を中心にして、「中国は強権的で、覇権を追求している」と喧伝されています。ただ、実際に収集した一次史料や、中日双方の当事者から聴き取った話からは、まったく違う中国像が見えてきました。また、「中国脅威論」が高まるにつれて、中国の歴史的、社会的文脈に基づいて研究するという中国研究の基本姿勢が「中国寄り」だと見なされてしまう趨勢に、危険なものを感じていました。

 そこで、当時の歴史的、社会的、文化的文脈から歴史経験を再構成することが、現在の価値観や歴史観からそれを捉える姿勢とはまったく異なる、ということを際立たせるアプローチを採る必要があると考えました。本書との関連でいえば、新中国による戦犯裁判が行われた1950年代を当時の文脈に基づいて理解すれば、現在の日中関係の基本構図との間に共通性、連続性があることが見えてきます。

 1950年代、社会主義国となった中国に対し、吉田茂政権、岸信介政権が中心になって、「中国は覇権主義、軍事膨脹主義だ」と非難していました。そして、米軍に基地を提供したり、朝鮮戦争にも直接掃海部隊を派遣したりして、再軍備政策を推し進めていました。そうした時期の中国がいかに日本に対峙していたのかを確認することは、現在の中国の実像を的確に捉えるための手がかりになると言えます。

撫順戦犯管理所

――さて、この本で解明したい課題について教えてください。

 三つあります。①新中国裁判に関する分厚い先入観の克服、②帰国した戦犯のその後の歩みから、新中国裁判の意義を捉え返すこと、③「寛大さ」の意味の明確化、です。

 詳しく言いますと、①先入観としては、日本でも中国でも、新中国による寛大な戦犯裁判やその過程で生まれた日本人戦犯の認罪・反省は中国共産党政府による「洗脳」である、日本と国交回復してアメリカとの関係を分断させるための外交カードだ、日本人戦犯は中国人の「徳」に感化を受けて反省した、といった「俗説」が根強く存在しています。これらについては、具体的な史実に基づいて、学術的な方法で分析する必要があります。戦犯裁判や法律の専門家の間からも、「建国初期には刑法など国内法が未整備のため、法的根拠がなく、政治的な茶番劇だった」、「国際法に基づかない、共産党の対日政策による裁判」、「戦犯の認罪は釈放を引き出すために、共産党に『忖度』した結果にすぎない」といった声も聞こえます。こうした主張が歴史事実の裏付けを伴っているのかを検討する必要があります。

 ②近年の欧米圏の戦犯裁判研究では、ニュルンベルク裁判や東京裁判において、国家ではなく個人の責任が問われたことの意義が焦点となっています。ただ、被告が自己の行為や責任をどう捉えていたか、さらに個人責任を問われた戦犯が裁判後に、罪にいかに向き合ったのかを扱った研究はこれまでほとんど見られません。裁判を終えた彼らがその後どのように生きたかは、戦犯裁判の性格や意義を別の角度から照らすことになります。しかし、そういう問題意識はほとんど存在していませんでした。

 ③新中国の裁判は残虐な戦争犯罪人に対して、一人の死刑も終身刑も科さない唯一の戦犯裁判でした。しかし、罪とその責任の追及には、戦犯収容直後から判決に至るまで、徹頭徹尾きわめて厳格・厳密だった経過にこそ注目する必要があります。罪に問わない、あるいは曖昧化して減刑や釈放をするという意味での「寛大さ」とは無縁でした。他方で、日本政府は新中国が拘留している日本人をできるだけ戦犯扱いせず、単に残留邦人を帰還させる「人道問題」として扱おうとしました。中国側はこれは責任主体のすり替えであり、主権侵害だとして応じず、戦後処理を優先させる原則を貫き、戦犯裁判を実施しました。

 つまり、厳格から寛大へと転換したのではなく、厳格さ・厳密さを貫いた結果、同時に寛大でもあったという両義的な性格として捉える必要があります。このことを本書の中で、一次史料、聴き取り、歴史的考察を交えて論証しました。 

撫順戦犯管理所の図書室で本や新聞を読む戦犯たち 

――いずれも興味深い問題設定ですが、まず、新中国裁判がこれまで学界ではあまり注目されてこなかったことの背景は?

 新中国裁判は「西洋基準」から逸脱しているという先入観が、事実解明より先に拡がってしまったことが大きかったと思います。西洋中心主義を無意識に前提にしている人々ほど、見るべき価値のない出来事だとみなしがちです。

 後で説明したいと思いますが、新中国裁判は東京裁判、ニュルンベルク裁判の法的根拠を基準としていました。ただ、その点は明確には表明されず、全国人民代表大会(全人代)での「決定」という文書のなかで、控えめでやや分かりにくい形で盛り込まれました。それが、法に基づいていないという先入観となり、事実の確認もされないまま、拡がってしまいました。

 中国が日本によって被った侵略の実態は、質量ともに他国の被害を圧倒する規模でした。ナチスによる対ユダヤ人犯罪の甚大さに見合うものとして「人道に対する罪」が生み出されたように、中国での犯罪実態に応じた法的根拠や罪行名称が本来なら作られるべきでした。そのための努力もなかったわけではありません。しかし、“話語”(言語化)の面でも先行裁判の概念体系が主流になり、それが受け入れられてしまうと、共産党政府の裁判の中身について、史料に基づいて実態に迫り、その意義を研究するということが行われなくなったのだと考えられます。

■「平和的帰結」は他の戦犯裁判にはない特徴

他の戦犯たちの前で自身の戦争犯罪を自供する様子

 ――新中国裁判をより立体的に理解するには、たとえば国民政府裁判と比較すれば、どのような特徴がみられますか。

 1945年の日本敗戦後、まず国民政府による戦犯裁判が行われました。国民政府裁判の法的根拠は、国際戦犯裁判の枠組を援用し、それを越えない範囲で運用されました。また、軍事法廷が南京や済南など10箇所に分かれたことで、地域差が大きいという実態もあります。澄田𧶛(らい)四郎や岡村寧次など司令官クラスの不起訴、無罪判決という結果は、あきらかに法を逸脱した政治的帰結でした。彼らは帰国後、反共連携に奔走し、蒋介石による大陸反攻の支援に暗躍しました。

 これに対し、新中国裁判は、東京裁判、ニュルンベルク裁判の枠組を援用しながら、その限界を乗り越えるという努力を重ね、結果として既存の国際法や国内法などの法的根拠を踏まえた政治的解決策を独自に導きました。戦犯たちは認罪、反省してすべての判決結果を受け入れただけでなく、釈放後、自由の身になっても、過去の反省を振り返り、深め続けて平和実践を持続させました。この点は、他の戦犯裁判にはない特徴です。

1956年夏に瀋陽市に設置された特別軍事法廷

――ところで、当事者のその後の歩みにフォーカスすることの意義をどう考えますか。

 侵略戦争、戦争犯罪の再発を防ぐという戦犯裁判の目的を考えれば、裁判後の更生状況を確認する研究が不可欠だと言えます。

 2000年代以降の、主に英語圏の戦犯裁判研究の焦点は、ニュルンベルク裁判や東京裁判が戦犯個人の責任をはじめて裁いた点にあり、それらを「国際司法上の画期的な転換点」と評価してきました。確かに、この二つの国際裁判では、戦争指導者だった各個人がいかなる戦争犯罪にどのように関与したかを明確にすることに繋がりました。ただ、被告自身が自己の行為や責任をどう捉えていたのかや、その後、罪とどう向き合ってきたかについては、ほとんど研究されていませんでした。

 その点、新中国裁判の対象者たちは、帰国後に組織的な平和活動を晩年まで続けました。当事者には、帰国後の自分たちの歩みこそが、戦犯裁判の評価を意味づけるものだという問題意識がありました。言い換えれば、自分たちが帰国後に認罪を覆せば、罪の裁きだけでなく、人間性の回復をも考慮した平和志向の裁判の意義を損ねてしまうと考えていたのです。

 もちろん、戦犯がそう考える契機は、収容中の学習、自己批判・自己反省の中で生まれたものです。そういう意味では、戦犯裁判を評価するには、裁判中の動向だけでなく、帰国後の戦犯たちの行動にも着目することで、より踏み込んだ理解をすることができるといえます。

 つづく

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