北京
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2023年8月12日が中日平和友好条約締結45周年の日です。8月は、戦争と平和について多く語られる季節でもあります。こんな中、歴史に向き合い、和解を実現するには何が大事なのか、カナダ在住のジャーナリスト・乗松聡子さんにオンラインでお話を伺いました。
乗松聡子さん
■「日本よ、アジアに戻ろう」 そして「漠然とした平和教育」に別れを告げよう
――8月10日に東京で開かれた「日中平和友好条約締結45周年記念大集会」で、乗松さんは「日本よ、アジアに戻ろう~歴史と向き合う友好を築く~」と題したスピーチを行いました。ここで言う「アジアに戻る」とは?
日本人は物理的にはアジアにいるのに、歴史認識においても、アイデンティティにおいても、アジアと乖離しているように見えます。私はそれについて大変悲しく思っており、気持ちも頭もアジアに戻るべきと思っています。
また、中国との関係においては、日本人が加害の歴史の事実を学び、それを記憶し、継承し、二度としないという決意を新たにしてこそ友好が初めて可能だという思いを訴えたかったのです。
――日本人の「アジアとの乖離」について、どうように実感していますか。
たとえば、日本語では、「アジアン料理」というとタイ、インドネシアのようなエスニック料理を指し、海外旅行に行く時は「アジアに行こう」とかというふうに言っています。そうした言葉使いからも分かるように、日本人は今も自分のことを「アジアの一部」と思っていないようです。
歴史を振り返ってみますと、福沢諭吉の「脱亜入欧」思想のように、日本人は自分たちをアジア諸国の中で、格上の存在として見る思想がありました。それが中国を初め、アジア太平洋全体での日本軍の残虐行為や、日本人による他のアジア人への差別感情の温床となったという指摘があります。
評論家の故・加藤周一氏は言っていました。「南京大虐殺は現代人と関係がないとは言えない。現代の日本社会には、南京大虐殺を生み出した一因である差別感情がまだ残っていないか、2度と起こさないために、それを調べることが若い世代の責任であり、だから歴史を学ばなければいけないのだ」、と。
――ところで、海外生活が長い乗松さんの目には、戦後日本の平和教育はどのように写っていますか。
私は、日本の平和教育において、日本人が被害者だったという体験ばかりでなく、大日本帝国による加害の歴史にこそ自覚を持つべきだと思っています。残念ながら、日本の教育制度では日本における原爆や空爆の被害を取り上げて、「戦争はいけない」とか、「平和を祈る」といった、漠然とした平和教育が中心だと思います。大日本帝国が行ってきた他国への侵略や、植民地支配の事実や、それを支えてきた民衆の差別心を克服するような教育はほとんどないと言っていいと思います。
1984年 カナダ・ビクトリア市のレスター・B・ピアソンカレッジ留学中の乗松聡子さん
(前列左端 本人提供写真)
私自身は、高二と高三をカナダの国際学校で、70カ国から来た200人の学生たちと寮生活をしながら学んでいました。お陰で、日本の学校では聞いたことのなかった歴史についてアジアの同胞から聞きました。例えば、シンガポールの友人からは、日本占領地の華人虐殺について、「日本軍が赤ん坊を銃剣で串刺しにした」とか。インドネシアの友人からは、未だに現地の人から「ロームシャ」という言葉で記憶されている、強制動員の歴史について聞きました。その頃から今に至るまで、中国や韓国や様々なアジアの同胞と付き合うようになり、自分は日本人というよりも、アジア人というアイデンティティを持つようになりました。
■加害の歴史を伝える資料館や記念碑が「希望」
――ところで、乗松さんは、「平和のための博物館・世界ネットワーク」の共同代表を務めているようですが、どのような組織ですか。
「平和のための博物館国際ネットワーク」(International Network of Museums for Peace)」は1992年に設立された、世界中の平和のための博物館を横につなぐネットワークです。約40の団体会員と約150人の個人会員がいて、一番会員が多い国は日本です。団体会員の中には、スペインのゲルニカ平和博物館、カナダの国立人権博物館、日本の立命館大学国際平和ミュージアムなどがあります。3年に一度国際会議があり、今年は14~16日の日程で、スウェーデンのウプサラ市で開催しました。中国からは中国人民抗日戦争紀念館なども会議に参加していたときがあり、今年は南京のジョン・ラーベ記念館の関係者が出席しました。
――乗松さんはこの運動に約20年関わってこられたと伺っていますが、近年、日本国内で注目する博物館はありますか。
日本では、学校で教えない、日本の加害の歴史を伝える資料館や記念碑が各地にあることを私は希望に思っています。「中帰連平和記念館」がその一つです。
日本の敗戦にあたり、ソ連軍は約60万人の日本軍捕虜をシベリアに抑留しましたが、1950年に969名が戦犯として中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されました。新中国の寛大な政策により、戦犯たちはちゃんとした食事を与えられ、学習や文化活動も許され、「鬼から人間へ」戻ることができました。そして、自分たちの罪を認めるようになりました。軍事法廷では結果的に1人の死刑や無期懲役もなく、禁錮8年から20年の有罪判決を受けた45人も、シベリアの5年と管理所の6年が刑期に含められ、全員が1964年までに帰国を許されました。被害者が加害国の戦犯をあえて許したという、「撫順の奇蹟」と言われる歴史です。
「中帰連平和記念館」外観(写真提供:乗松聡子)
「中帰連平和記念館」室内の様子(写真提供:乗松聡子)
帰国した元戦犯たちは、「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、自分たちの戦争犯罪や加害の事実を日本で伝えていく活動をしました。当事者の高齢化に従い、より若い世代が「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」として引き継ぎ、2006年に「NPO中帰連平和記念館」が川越市に創設され、今も日本の中国侵略の歴史を伝え続けています。
もう一つは、長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」。長崎の朝鮮人や中国人の強制連行の被害者や原爆被害者を記憶し、同時に、日本軍「慰安婦」、731部隊、南京大虐殺など、「史実にもとづいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立された」(資料館パンフレットより)平和資料館です。
岡まさはる記念長崎平和資料館(写真提供:乗松聡子)
■加害の歴史の勉強は、日本の平和構築に不可欠
――日本では、毎年8月になると、戦争と平和について多く語られます。そんな中、歴史を見つめる時の乗松さんの複眼的な目線に、私は深い印象を持ちました。
米国の原爆投下はもちろん許されない戦争犯罪ですが、原爆の被害を語る時も、被害者の約一割を占める朝鮮人や、中国人の被害者もいたことを忘れてはいけないと私は思います。日本の植民地支配や侵略戦争があったが故に日本にいた人たちです。
広島の太田川水系の安野発電所建設には、戦争終盤には360人の中国人が強制連行され、奴隷労働に就かされました。帰国までの約1年間に、112人が負傷、269人が病気になり、29人が死亡、うち5人は原爆死でした。これら強制連行された中国人たちが作った発電所は、今も静かに広島に電気を送り続けているのです。
広島・安野 中国人受難之碑(2023年9月17日 乗松聡子撮影)
また、長崎の平和公園内にある、「中国人原爆犠牲者追悼碑」にはこう書かれています。
「戦時中日本は約4万人の中国人を強制連行し、炭鉱や鉱山、港湾、土木工事などで過酷な労働を強いてわずか1年余りの間に6,830名もの死亡者を出しました。」
長崎では三菱工業の高島炭鉱、いわゆる軍艦島と言われる端島炭鉱、崎戸炭鉱、日鉄鉱業の鹿町炭鉱に1,042名が強制連行され、115名が死亡しました。このうち、32名が長崎の浦上刑務所に拘留されたまま原爆の犠牲になりました。
長崎の「中国人原爆犠牲者追悼碑」(2023年5月23日 乗松聡子撮影)
私は8月6日と9日の原爆の日は、強制連行された上に、原爆で殺された朝鮮や中国の人たちの無念に、思いを馳せなければいけない日だと思っています。
――乗松さんは、8月10日に開かれた集会では、「8月6日と9日、原爆投下の日で日本の被害ばかりに注目がいく時期だからこそ、長崎と広島の加害性について、強調したく思う」と話しましたが、そう思わせた背景について教えてください。
まずは、長崎も広島も原爆投下で凄まじい被害を受ける前の大前提として、加害の地であったからです。
長崎の人たちはどれだけ知っているでしょうか。長崎にある大村飛行場は、中国への渡洋爆撃の起点でした。笠原十九司さんの本『南京事件』によりますと、1937年8月15日、「南京を爆撃したのは、海軍木更津航空隊の新鋭機=96式陸上攻撃機20機だった。この日午前9時10分、長崎の大村基地を発進した爆撃機隊は、東支那海を横断し、台風による悪天候をおして南京まで、洋上600キロをふくむ960キロを4時間で飛翔、『南京渡洋爆撃』を敢行したのである」。
同様に、日本軍の渡洋爆撃の基地とされた、韓国の済州島のアルトゥル飛行場では毎年南京大虐殺の追悼式が行われています。当時日本が植民地支配していた、済州島の人たちには責任がないにもかかわらずです。
済州島アルトゥル飛行場格納庫跡地での南京大虐殺追悼集会2019
(撮影&写真提供:Oum Mun-hee )
広島も加害の地です。広島は日清戦争(中国では「甲午戦争」と表記)では大本営が置かれ、天皇が直接指揮を執った軍都でした。今年G7が開催された宇品港という場所は、日清戦争以来、日本の侵略戦争の出撃地点、輸送拠点でした。
また、今年は1923年の関東大震災後大虐殺の100周年です。6000人以上の朝鮮人、また800人にも及ぶと言われる中国人が惨殺されました。これは人類史上でも最大規模と言える、日本人によるヘイトクライムであり、日本政府は責任を取る必要があります。日本人はこの歴史を学び、記憶する必要があります。
■批判的な目を養い、人と人との交流を大事にする
――さて、中日平和友好条約締結45周年に寄せる思いは?
私は高校時代の留学からカナダに移民して以来、中国や中華系の友人たちとの交流で感じたことは、中国の人たちは、欧米列強や日本に侵略された「屈辱の100年」を決して忘れないということです。
日本は日清戦争の旅順大虐殺、平頂山大虐殺、南京大虐殺、戦時性暴力、細菌戦や毒ガスなどの許されない犯罪を中国の人に対して犯してしまいました。中国の友人が私に話してくれたことがあります。「日本と中国の間には2000年の歴史がある。近現代における侵略戦争は、この長い歴史の中ではわずかな期間であり、乗り越えることができる」と。ありがたい言葉だと思いました。
しかしその友好も、日本人が常に加害の歴史の事実を学び、それを記憶し、継承し、二度としないという決意を更新し続けてこそ、初めて実現が可能なものだと思います。
――最後に、平和構築に向けてのメッセージをお願いいたします。
今年は、1953年の朝鮮戦争停戦協定70周年の節目でもあります。この戦争は日本から解放されたはずの朝鮮が分断され、内戦状態となり、最後は米中戦争の様相も呈し、日本も加担しました。この戦争でさえまだ終結できていないのに、今、また米国と、日本を含む同盟国は新たな戦争を中国に仕掛けようとしています。広島と長崎が「加害の地であった」と言いましたが、実は過去形ではなく今もそうなのです。戦前は大日本帝国の中国侵略の拠点であり、現在も日米の基地が張り巡らされ、再び侵略戦争の拠点になってしまっています。
市民にできることは政治参加することはもちろん、目の前に溢れる嫌中情報に踊らされず、批判的な目を養い、人と人との交流を大事にすることが、平和を促進し、戦争を防ぐことであると、私は信じております。
(聞き手&記事:王小燕)
【プロフィール】
乗松聡子(のりまつ さとこ)さん
ピース・フィロソフィー・センター代表、「アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス」エディター
東京都生まれ。バンクーバー九条の会共同代表。高校時代の留学含め、カナダ西海岸に通算28 年在住。
主な著書:
(共著)『沖縄の〈怒〉 日米への抵抗』(法律文化社)(英語、中国語、韓国語で刊行)
(共著)『よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか!』(金曜日)
(編著)『沖縄は孤立していない 世界から沖縄への声、声、声。』(金曜日)など
現在は「琉球新報」に「乗松聡子の眼」コラムシリーズを連載中
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