【追悼特集】北京放送リスナー&『人民中国』愛読者の神宮寺敬さんをしのぶ(前編)

2023-04-11 19:52:33  CRI

 

神宮寺敬さん・綾子さん夫妻 2020年2月撮影           

 春まだ浅い日曜日の午後、甲府から悲報が届きました。103歳の誕生日まであと12日という2月12日、長年にわたる北京放送のリスナーで、『人民中国』の読者でもある神宮寺敬さんが逝去されました。「もう一度だけ中国に行きたい、と父は言い続けていた」という長女・敬子さんの言葉に、ご本人の無念を感じずにはいられませんでした。

 神宮寺さんは、戦争の悲惨さを目の当たりにしたことから、中国との平和・友好をライフワークとして取り組んできました。中国の友人や「子どもたち」と呼ぶ若い人たちの間で、神宮寺さん夫妻は「おじさん」「おばさん」と呼ばれ、親しまれていました。

 悲報を受けた『人民中国』の王衆一総編集長は、「今年の創刊70周年を前に、かけがえのない人を失った」と悲しんでいました。おじさん一家と親しく付き合っていた北京放送の蘇克彬元副編集長、張富生元副台長は共に、「私心なく中日友好を願い、中国の発展を願っている真の友人だった」と神宮寺さんの死を悼みました。

 天国へと旅立たれたおじさん、おばさんのご冥福をお祈りし、拙文をお二人への供養とさせていただきます。

◆中国研修生に自宅を開放  

神宮寺家の下宿館 1970年代初めに撮影

 武田神社(甲府市)から山に向かって徒歩約15分。甲府の「奥座敷」 として知られるのどかな田園地帯に、神宮寺おじさんの家があります。庭先からは甲府盆地を一望でき、南アルプスの連峰が見えます。

 私は2002年7月、北京放送16人目の研修生として、ここで半年間ホームステイをしました。

神宮寺さんの自宅からの眺め

 朝6時頃、柴犬レオの鳴き声を合図におじさんが起床。犬の散歩の後は朝食の支度をします。綾子おばさんは数年前、事故で手に大けがを負い、以後この家ではおじさんが炊事担当です。

 ご飯に梅干し、みそ汁が定番の朝食ですが、米は自分の田んぼで取れたもので、梅干しはおばさんの手作り。山にあるウメの木から採って漬けたものです。みそ汁も、手作りみそと煮干しを使ったおじさんの特製。普通の家庭料理ですが、この家にしかない味です。

 朝食の前に重要な「儀式」があります。食卓の側にある仏壇に向かって般若心経を唱えます。

 「ああ、今日もすらすら読めたので、まだボケていない」という感想も忘れません。

 食卓では、たまに外国人の私が戸惑う言葉遣いも聞きました。

 「ああ、今日のご飯はコワい」

 「おじさん、落語で『まんじゅうコワい』というのは聞いたことがありますが、ご飯のどこがこわいのかな」。こんな感じで1日が始まります。

2002年 UTY研修中に神宮寺家で稲刈りを体験した筆者

 当時82歳だったおじさんは、自ら創業した会社の社長で、毎日マイカーで通勤していました。週末は兼業農家となり、私も田んぼの仕事や畑の草むしりを手伝いました。

 おじさんは、あるエッセーでこう書いています。「他人は私たちに、『中国の多くの娘さんを引き受けて大変ですね』という。私たち夫婦は日本と中国との友好を生涯の仕事、ライフワークと思い、楽しく続けていきたいと思っている」。中国人の若者を自宅に受け入れ、半年も共に暮らすことの大変さを苦にせず、むしろおじさんたちは、さまざまな会話の中からその時々の中国の様子を知ることができ、「勉強になることが多かった」と振り返っていました。  

 ある晩のことでした。おじさんは自分が書いた随筆文を見せてくれました。新聞の投書欄に採用され、好評を得たエッセーです。「短い祝辞」という見出しで、副題は「お前愛しているよ」でした。

 内容は、めい御さんさんの結婚式に出席した日に起きたことについてでした。その日、おじさんは車を運転していて追突事故に遭ってしまいました。頭の中が真っ白になった次の瞬間、妻・綾子さんの顔が浮かんだそうです。帰宅後、早速この話を綾子さんに話すと、綾子さんはうれしそうな顔になりました。それを見たおじさんは、「言葉にすることの大切さを知り」、それからは、「連れ添って40年口にしなかった『お前が好きだよ』を何かにつけて言うようになった」とユーモアたっぷりにつづっていました。とても心が温かくなるエッセーでした。

特技の碁石を使った手品を披露する神宮寺敬さん 2016年夏撮影

 こうした何気ない小さな出来事から悟ったことを、おじさんは普段着の言葉でよく語っていました。余談ですが、おじさんは手相を占ったり、手の中に握った碁石を瞬時にもう一方の手の中に移動させたりする手品までこなしました。このほかに、おじさんは卓球の選手で山岳部の出身、囲碁アマチュア三段、生け花日本古流の免許皆伝といった趣味人でもあります。そうしたたしなみの中から豊かな感性が育まれ、人生を達観できたのだと思います。

神宮寺家でお世話になったCRI研修生の一部

2018年3月 研修生OGと北京放送OB・OGが神宮寺家を訪ねた

 ◆中国の「娘・息子」と同じ釜の飯

 「友好とはお互いを知る事。これには同じ釜の飯を食べることが大事です」。このシンプルな言葉がおじさん夫婦の「行動指針」でした。研修生の受け入れを始めた1986年から、夫妻は中国の知人や「娘」や「息子」たちに会うため、毎年中国を訪問しました。中国との交わりは、まるで神宮寺家の「年中行事」のようでした。

1986年 北京放送を訪れた神宮寺さん夫妻

1991年 北京放送を訪れた神宮寺敬さん

2005年10月 北京放送を訪れた神宮寺さん夫妻

2007年10月 北京放送を訪れた神宮寺さん夫妻

2010年10月 北京放送を訪れた神宮寺敬さん夫妻

 しかし、それから30数年たち、月日が流れれば山あり谷ありで、人生さまざまな出来事が起こります。神宮寺家でも家族の人が病気になったり、事故などの不幸が起きたりしましたが、中国との交流が途絶えることはありませんでした。

1970年代初め 東京・恵比須にある中国駐日本記者団駐在地を訪れた神宮寺さんと長女の敬子さん、長男の元さん

 66年以降、神宮寺さん一家と家族ぐるみのお付き合いをしてきた新華社の元駐日首席記者の劉徳有さん(現『人民中国』顧問)は、中国との友好交流一途だった神宮寺さんを、「荒波を潜り抜け、真理を追い求め、中日友好の信念を貫き通された方」と大変尊敬していました。私も同じです。

 では、その強い信念は一体どこから来たものでしょうか。私は少しずつその答えが分かってきました。それは、神宮寺おじさんの戦争から平和への旅路といえるものでした。

※この記事の初出は日本語月刊誌『人民中国』2023年4月号です 

(つづく)

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