「中日両国の人々は仲良くしていける」~訪中学生団の会「ちいら会」井垣清明会長に聞く〜

2022-11-15 20:52:51  CRI

 「訪中学生団57年記念展 1965~2022」と題した展示会が11月14日、東京虎ノ門にある中国文化センターで開幕しました。会期は18日まで。主催は中日国交正常化前の1965~1972年の間に、毎年訪中した学生参観団の団員785名からなる「斉了会(ちいら会)」。会員が個人で保有している写真や資料、記念文集などが展示され、スライドショーや講演、シンポジウムなども併設イベントとしてほぼ毎日行っています。

11月14日、「訪中学生団57年記念展」開会式の様子

 会長の井垣清明さんは1944年4月5日、書家の井垣北城(1912-1984)さんの長男として生まれました。1965年8月、早稲田大学の学生だった清明さんは第1次訪中学生参観団の一員として、民間の旅行社が手配する2週間にわたる中国の旅に参加。その後も4年続けて参観団に申し込みました。

 若き頃の訪中体験をどう振り返り、展示会にどのような思いが込められているのか、書家で会長の井垣清明さんにお話を伺いました。

「ちいら会」井垣清明会長 

<始まりは1965年8月の学生訪中団の参加体験>

――1965年、訪中ツアーに申し込んだきっかけは?

  当時の私は22歳で、早稲田大学に在学中でした。「中国研究会」というサークルにいましたが、その年の2月に隣の部室にある雄弁会の人から中国行きの話を聞いて、「ぜひ行こう」と思って、友達を誘って申込みました。私にとっては、初めての海外旅行で、参加費は父親から提供された14万円で賄いました。

――126人もいる大型訪問団だったようですが……

 そうですね。参加者には大きく三つのタイプがあります。植民や侵略から独立し、解放を勝ち取った中国革命の歴史に興味を持つ人、中国の古典や古代史に関心がある人、そして、なんでも見たい、聞きたい、行きたい、知りたいという興味本位の人でした。他にも、中国で生まれ、日本で育った引揚者もいましたが、一人の中には二つ以上の特徴がみられたり、細かくは分けられません。

――2週間の中国滞在では、どのように行動しましたか。

 コースは同じですが、おおよそ20人ずつ、6つの班に分かれて行動しました。国交がなかったので、香港から入境し、羅湖から深センへは橋を渡って入りますが、深センの青い空に五星紅旗がはためいているのを目にすると、「中国に来たな」というふうに思いました。それから広州、上海、北京というふうに訪問しました。

 初めての海外旅行でしたし、すべてのことが忘れられません。香港では船で暮らす人たちの貧しさを目の当たりにし、貧富の格差を実感しました。一方、最初に入った深センでは、水牛がのんびり歩いている風景を見て、私が育ったところとよく似ているなと思いました。「中国って広いな」と。また、広州から杭州へ行く列車に乗った時には、並木に榕樹(ガジュマル)が植えられていたことや、道中、地面がバラ色の土になっていたことが印象的でした。赤い土は、私が初めて見る土の色でしたから。

――旅の中で接した中国人の印象は?

 一番最初は広州で『東方紅』という歌舞劇を見ました。夏で暑かったので、顔に塗ったドーランが汗で滲んていました。終わってから握手した時の手の感じは、今でも覚えています。

 両方とも初めてのことだったと思いました。我々も一生懸命やりましたが、中国の皆さんも一生懸命やってくれました。もう至れり尽くせりのサービスをしていただいたんですね。

 「訪中学生団57年記念展 1956~2022」のチラシより抜粋

―ほかに忘れられないエピソードは?

 杭州を訪問した時のことでした。柳浪聞鶯公園では、1962年に訪中した岐阜市市長が揮毫した「日中不再戦」の碑が建っています。その碑の裏には、日本の兵隊が中国を侵略したという内容が書かれています。それを読みながら解説してくれた顧問の六角先生という方は、途中から自分が軍人として中国に行った時のことを思い出して、涙声になり、言葉がうまく繋がりませんでした。「中国に対して、良くない戦争をした」というその気持ちがひしひしと私達に伝わり、「日中不再戦」と「日中友好」というのが、表裏の関係だなとつくづく思いました。 

 (左)王子達杭州市長(右)と碑文を交換する山田丈夫岐阜県訪中使節団長1962年10月、杭州(資料写真)

(中)杭州・柳浪聞鶯公園に立つ「日中不再戦」碑(写真:視覚中国)

(右)岐阜公園外苑(現日中友好庭園)にある杭州市長が揮毫した記念碑(資料写真)

  実は、岐阜市長の碑は杭州市長による「中日両国人民世世代代友好下去」の書と取り交わされた形で、建立されたものです。杭州市長の書が彫られた碑は今も、岐阜公園外苑(現日中友好庭園)に立っています。

――ところで、1965年の中日関係は「以民促官」、つまり、民間が主役の時代でした。その年、日本から500人の若者が中国側の招きで訪中し、歴史に残る「中日青年大交流」が行われました。井垣さんたちの参観団はそちらと合流して活動も行いましたか。

 中国に着いてから、「日本の学生の方々も青年大交流に参加しませんか」という提案を受けました。団員の中には、就職が決まったなどの理由で参加を見送りたい人もいましたが、議論した結果、「参観」の形で参加を決めました。それで、北京の滞在がほんの何日か延びました。そのため、帰途の北京から広州までは、列車の予定でしたが、結局飛行機に乗って帰ることになりました。

11月14日、「訪中学生団57年記念展」開会式の様子

<中日友好は大きな川の流れのよう>

――皆さんの「ちいら会」の由来を教えてください。

 1965年夏、「明日は羽田空港」という香港で過ごした最後の晩に、「この団を解散するのは非常に心苦しい、忍びない。団として残そう」と言った時に、団の名前について提案が挙がりました。それは、バスに乗る時もどこかに行く時も、良く聞かされる「斉了吗(みんな揃いましたか)」という言葉でした。団の人はみんな耳慣れた明るい言葉ですから、「じゃあ、『ちいら会』にしよう」というのが会の由来です。

 「ちいら会」の訪中団は国交正常化を実現した1972年までに8年間連続して実施し、大体800名の団員が会員になっています。私は8回のうち、1969年の第5回派遣まで続けて参加しました。また、国交回復した後、四川大地震後の復興支援等を企画した時の参加者も会員に加わっていますが、今も活動を続けているアクティブメンバーは約100名ぐらいです。

――「57年展」に込めた思いは?

 私たちはとにかく中国に行ってきたという体験が元になっています。そして、中国の方々との温かい友好交流を積み重ねてきただけに人的往来がとても大事だと思っています。コロナで行ったり来たりできない中、中国の情報をなるべくたくさん日本の中に広めていく。それが中国との友好関係を増進することになると思っています。開幕直前まであたふた、右往左往しながらやっています。苦労が大きいと、喜びもそれだけ大きいわけです。苦労した裏返しの喜びをゆっくり味わいたいなと思っています。

――この展示会を通して、一番伝えたいメッセージは?

 まあ、私の考えでは、「中国は怖い国じゃないよ。中国の人達は温かいよ。仲良くできるんだよ。私はそうなんだから」ということを伝えたいですね。とにかく中国とは喧嘩をしてはならない。仲良くしましょう。これが基本ですね。

11月14日、「訪中学生団57年記念展」開会式の様子

――ところで、中日間の国民感情の現状について、どのような気持ちで受け止めていますか?

 川の流れは幅が広くなったり狭くなったり、時々は逆流があったり、波しぶきがあったりしますよ。歴史的に見れば、日中友好の流れはずっと続いていくと思います。国家間の関係の良し悪しは関係なく、両国の人民、青年は仲良くできるし、仲良くしていけるというふうに思っています。

 川って面白いですよ。時には天井川になって、時には伏流川になって、上の方を流れた時もあれば、地面の下を流れることもあったりしますけど、ちゃんと流れていけばいいでしょう。その大きな川の流れの一部分として、日中友好に役立つことができたらと思っています。

――最後に、交流を続けたい両国の若者への提言をお願いいたします。

 とにかく会って話すことが一番です。お会いすれば、どんな顔で、どんな声なのかが、お互いに分かりますから。面と向かって会えば、大体仲良くなりますよね。人と人との交流、これが一番大事だと思います。

 それから、お互いに相手の言葉を勉強すると、これは却って自分の言葉をもう一度見直すことになりますから、推奨したいですね。

 (構成:王小燕、朱航、校正:星和明、協力:伊藤俊彦、写真提供:ちいら会)

◆ ◆

 この記事をお読みになってのご意見やご感想は、nihao2180@cri.com.cnまでお願いいたします。件名は【火曜ハイウェイ係りまで】。お手紙は【郵便番号100040 中国北京市石景山路甲16号 中国国際放送局日本語部】までにお願いいたします。皆さんからのメールやお便りをお待ちしております。 

ラジオ番組
KANKAN特集