四字成語"破鏡重円"(はきょうじゅうえん)は、引き裂かれた夫婦が再び結ばれることを意味します。
中国の南北朝時代、陳の国の皇女、楽昌皇女が、才能豊かで名が知られる徐徳言と結婚しました。夫婦二人、とても睦まじく暮らしていました。
やがて、陳の国は衰退し、北朝の隋によって滅ぼされるのが明らかになってきます。戦乱によって、離れ離れになることを案じた皇女は、毎日お化粧の時に使う銅製の鏡を割って、片方を夫に渡し、もう片方を自分が持つことにし、約束しました。毎年の旧暦1月15日、即ち、元宵節の日に、隋の都であった長安、つまり現在の西安の町で、鏡を売りだすふりをし、鏡を互いの再会の証として、相手と再会するまで探していくと。
まもなく陳は隋によって滅ぼされ、皇女は隋の大臣、楊素の側室となりました。翌年の1月15日、徐徳言ははるばる長安に駆けつけました。市場では片方の鏡を高値で売っている年老いた下僕がいました。徐徳言は懐から自分が持っていた半分の鏡を出して、それに合わせると、確かにぴったり合うのです。
しかし、探していた妻はいません。すると、徐徳言はその場で詩を書きました。「鏡は人と共に去り、鏡は帰ったものの人は帰らない。鏡にはもう皇女の姿が写らず、ただ空しく月の光が残っている。」
楽昌皇女は下僕に持ち帰られた詩を読むと、水も食事も喉を通らずに、ただただ悲しく泣き続けました。皇女の今の夫、楊素はこのことを聞き、大変感動し、徐徳言を召しだし、二人を面会させ、更に、南方に戻らせました。
物語の歴史的背景をご紹介しましょう。時は6世紀の終わりごろです。中国は南北朝時代の末期にあります。南北朝とは、439年から、589年にかけて、中国の南と北に、王朝が並立していた時期を指します。
主人公の楽昌皇女は南朝、陳の国の皇女でした。皇女の兄は、582年に即位した陳叔宝です。もともと、陳は建国時点から、国内外にいろんな問題が存在していました。しかし、陳の最後の皇帝となった陳叔宝は、女にだらしなく、政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのはただ時間の問題でした。
結局、隋が中国を統一しました。幸せな結婚に恵まれ、夫と仲良く過ごしていた楽昌皇女ですが、やはり国が滅びると共に、運命に翻弄されてしまいました。皇族の一員として、動乱の真っ只中に、そんなにたやすく過ごすわけにはいきません。
588年10月、隋の文帝は、中国の統一を目指し、次男の楊広を総大将として、総勢51万8000人の軍を送り込み、翌年の589年に、陳の都である建康(現在の南京)を陥落させ、陳の皇帝を捕らえて、陳を滅ぼしました。
楽昌皇女も捕虜となり、まるで戦利品のように、隋の大臣、楊素に所有されるようになりました。昔の中国では、国を失った貴族の女性は、たいてい戦利品として、新政権の王や部下に配られることになります。
女性がモノみたいで、寂しいですね。でも、こういう時代背景だから楽昌皇女は国が滅びる直前に、自分の将来の運命を察知し、夫、徐徳言と割った鏡を再会の証として、毎年の決まった日に、死ぬまで相手を探すと約束したのですね。
二人の愛には、そのような歴史的背景があるからこそ、やむをえない離別に家や国を失った恨みが加わり、一層忘れられない濃いものになったんではないかと思います。そんな歴史的背景がなければ、徐徳言と楽昌皇女は、世間のごく普通の夫婦と同じように、時間が経つと共に、喧嘩したり、些細なことで揉めたりして、あれほど燃えることがないでしょう。
この「破鏡重円」の物語が、1500年ぐらい経っても伝えられるのは、夫婦復縁の難しさによるものだと思います。「破鏡重円」より、むしろ、「破鏡難円」割れた鏡を修復できない。一旦離縁した夫婦は仲直りが難しい。というのが、普通でしょう。
「破鏡難円」、「破鏡重円」から派生された言葉ですが、逆にこっちのほうが、事例が多くて、よく使われているようですね。
そもそも、「破鏡重円」は普通の夫婦の離縁とまったく違いますからね。皇女と夫の場合は、本人たちの気持ちではない外的な要素で分かれたので、かえって夫婦仲が良くなったのかもしれません。それと違って、普通の夫婦離縁は、色々意見の食い違いがあるので、分かれてしまった。鏡に例えると、もうひびが入ったので、また戻しても、そのひびは完璧に修復できないということですかね。
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