「史記」は中国では最も重要な歴史書の一つです。全部で130巻52万6500字からなっています。今から2100年ぐらい前、前漢の武帝の時代に、司馬遷によって編纂されました。それまでの史書は、時間軸による編年体或いは、地域別に歴史事件を述べる国別体の二種類でした。司馬遷は「紀伝体」という新しい記述方法を創出しました。これは、人物の伝記を中心に歴史の内容を記述するスタイルです。この意味では、「史記」はただの歴史書ではなく、歴史人物の物語を中心に展開していますので、壮大な歴史小説とでもいえます。後世の歴史書だけではなく、古代の小説や伝記文学、芝居などにも非常に大きな影響を及ぼしました。
「史記」には、大きく分けると、五つの内容があります。帝王の言動を記述する「本記」;表で系譜や人物、史実を羅列する「表」;社会経済や天文、地理などの記述する書;日本の戦国時代の大名に当たる世襲の王侯の歴史及び特別に重要な人物の事跡を記述する「世家」;及びそれ以外の民間の代表的な人物や少数民族の伝記を記す「列伝」という5つのものです。その中で、一番中心的な内容は「本記」と「列伝」です。
今日、ご紹介するのは、その「列伝」の一篇、「貨殖列伝」の序言です。「貨殖」とは、現代語に訳すと、貿易を通じて利益を得る商売、ビジネスの意味です。官僚・農民・職人・商売人という序列になった古代中国社会で、社会の最も低い階層である商売人のために歴史を書いた司馬遷は、すごいことをしたのです。
司馬遷のこうした姿勢は、儒教社会の中国ではしばしば批判の対象となりました。具体的には、後漢時代の歴史書「漢書」では、司馬遷が書いた「貨殖列伝」は利益を重んじて貧乏を恥じる、これは良くないと批判しました。このため、漢の時代、「史記」は正しい道から離れたものとして、高い評価を得られませんでした。しかし、現代人の私たちから見れば、そういった論争の的となった内容があるからこそ、当時の他の人々に比べて、ずっと鋭い目を持った司馬遷のことを一層、尊敬しますね。
(『貨殖列伝』序)老子の言葉に次のようなものがある。「最もよく国が統治されている時、隣国同士はニワトリや犬の鳴き声が聞こえてくるほど互いにすぐ見えるところにあっても、それぞれの国民は自分たちの衣食住に満足し、仕事を楽しみ、老いて死ぬまで隣国と行き来しようとしなかった。」
だが、この言葉を実現しようとし、現代社会を原始社会に引き戻そうとして民の耳目を塞いでしまうことは、ほとんど実行不可能であろう。
司馬遷は「貨殖列伝」の序言では、まず、老子の観点を取り上げました。老子の重要な思想の一つに、理想の国家像を描いたことがあります。いわゆる「小国寡民」、住民が少ない小さな国を指します。老子によりますと、そうした国の住民は文明の利器があっても、それを用いることがなく、軍隊があっても戦争がない。過剰な知識や野望もなく、衣食住すべて自給自足で、現状に満足し、他の地域に生きたいとは思いません。これは老子が唱える理想の国家像です。これは現代風に言いますと、地域生産地域消費という「地産地消」、及び少量生産・少量消費という意味ですね。
しかし、司馬遷はこれに反対しています。「だが、この言葉を実現しようとし、現代社会を原始社会に引き戻そうとして民の耳目を塞いでしまうことは、ほとんど実行不可能であろう。」と言う部分ですね。老子が唱える理想の国家像「小国寡民」の状態は原始時代の共同社会にしか存在しない。今はもう再現不可能です。私たちより2000年前の時代、前漢に生きていた司馬遷にとっては、ありえないという老子の「小国寡民」ですが、現代の私たちにとってはどうでしょうか?
現代社会はいわば「小国寡民」の対極にありますね。中国といえば、国が大きいし、人口も多いです。また、日本といえば、国の面積はわりと小さいんですけれども、国土の大きさに対して、人口が多いので「小国寡民」とは、言えないですし、地産地消どころか、日本には資源が少なく、貿易への依存度が高いですね。今、経済と社会のグローバル化とよく言われますが、世界範囲で貿易が頻繁に行われ、人々は高い所得や充実したライフスタイルを求めて都会に住み、便利な交通機関やIT機器などを駆使して生活しています。誰でも一人だけでは生きていられません。
もちろん、司馬遷の時代には、まだ現代社会のような高度な社会発展を予見できないかもしれません。しかし、司馬遷は、時代発展の傾向をしっかりと把握しています。
司馬遷の「史記・貨殖列伝 序言」を続けてご紹介します。
(貨殖列伝・序言)中国の伝説にある帝王神農(しんのう)氏より以前の歴史は、もう私には考察する手段がないが、『詩経』や「尚書」に記載された虞や夏及びそれ以降の歴史については、考察することができる。人々は美しい音楽やいい品物を楽しみ、口では様々な美味しい物を食べようとしている。体は快適で楽しい生活に耽りながら、心の中では、権力や才能を持つ人を羨む。このような風習がずいぶん前から浸透しているため、どんなに絶妙な理論で一々勧告指導しようとしても、結局変えることができない。このため、国民に対して、最もいいやり方は、自然に順応することである。2番目は、成り行きや勢いに応じて、有利な方向へ導くことである。3番目は教育を行うことである。4番目は、規制を行い、その秩序を整えることである。そして、最悪のやり方は、それに強く反対し、国民と利益を争うことである。
神農(しんのう)とは、古代中国の伝説上の皇帝です。いろんな種類の草を食べてそれぞれの効能を確かめ、民衆に医療や農耕の術を教えたといわれています。神農の時代は原始社会です。中国では文字による記録が残されていません。ですから、司馬遷は、神農やそれよりも前の歴史が私には良く分かりません。一体、その時は老子が言ったような「小国寡民」の状態などのかどうかも分かりません。と言っています。
しかし、それ以降の歴史及び人々の生活状態については、書物で調べることができるのでよく分かります。今の人と同じように、衣食住では上質な衣服や、美味しい食べ物、快適な家を求めている。これと同時に、権力や才能も望んでいます。これは老子が主張した才能もなく、欲望のない民衆とは、かなり違います。まずいものでも美味しいと思たり、粗末な服でもきれいだと、自分自身を騙すようなことができません。「そのような社会こそ、一番理想的だ」と、うまい言葉で教育しようとしても、なかなか理解されない。やっぱり一度豊かな生活を体験した人々にとっては、貧しさに戻ること、社会後退はありえないということですね。
ですから、民衆はもうこうなんだから、それに順応する、合わせるしかないよ、と、司馬遷は主張しています。民衆がどうしても豊かな生活を送りたいと言うのであれば、政府としては、それに順応して、貿易の利便を図るべきであり、それに強く反対したり、国民から利益を奪ったりしてはいけないと、強く訴えています。こういうような貿易自由化の観点が、今の私たちにとっても、すごく参考になるものと思います。
民衆が求めるものをやりなさいと言うことです。司馬遷がこのような主張をしたのは、その歴史的背景と緊密にかかわっていると見られます。司馬遷が生きていた時代の皇帝は、漢武帝でした。漢武帝は中国の歴史上、最も有能な皇帝の一人でした。軍事面では、その時の北方の少数民族、匈奴を討伐し、経済面では、財政収入を拡大するため、塩、鉄、酒などの貿易を独占しました。これによって、中央政府はこれまでにない絶大な富を獲得しましたが、民間の商工業の発展は強く抑えられ、疲弊していきました。司馬遷はこの「貨殖列伝・序言」の中で、漢武帝のこのような経済独占政策を非難しています。(文:ZHL)
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