李清照(1084年~1155年)は中国で、最も偉大な女性文学者の一人です。李清照は北宋末期から南宋初期に生きていました。その時、一番隆盛したのは、宋詞です。「詞」は字数、句数、押韻の決まったパターンに字を当て嵌めて作る韻文です。曲にあわせて書かれます。当時では全部歌になって歌うことができました。なので、歌謡文芸の一つとも呼ばれます。
李清照は現在の山東省済南市の所轄、章丘市に生まれました。その父親も文学者として有名です。家にはたくさんの書籍を収蔵しています。そんな家で豊かで天真爛漫な幼少時代を送りました。18歳の時、結婚しました。夫は当時太学の学生だった趙明誠です。太学とは当時の中国の一番レベルの高い教育機関です。日本で言えば東京大学、今の中国で言えば、北京大学か清華大学に当たると思います。趙明誠は当時学生でありながら、鐘や鼎、石碑などに刻されている古代の文字を研究する金石学者として、すでに名が知られていました。二人は書画の収集・整理など学術研究の分野で同じような趣味を持っています。それが、夫婦円満の秘訣となり、幸せな結婚生活を送っていました。後に清照は夫の著作『金石録』の編纂を手伝う事になりました。しかし、結婚1年後、政争のために、夫とやむを得ず別居するようになり、二、三年の間分かれて過ごしました。
これにはとても難しい歴史背景がありますが、要するに、清照の父親と夫趙明誠の父親はそれぞれ違う政治陣営に所属しています。皇帝が改革を行うことが引き金となって、政治陣営の争いが激しくなりました。その中で、まず清照の父親が失脚しました。趙明誠の父親のほうは、皇帝に重用され、やがて宰相になりました。しかし、政局の変化は激しいのです。今度は趙の父親がいた陣営、新党内部で利権をめぐる争いが熾烈になり、趙の父親は辞任せざるを得ませんでした。数日後、、趙明誠の父親は亡くなりました。一家は首都を離れ、実家山東省青州に帰りました。趙明誠と清照はやっと静かに暮らせるようになり、10年ほど山東省青州で過ごしていました。10後には、趙明誠は再び朝廷に起用されるようになり、清照と別れて、単身赴任しました。
人生の時期によって、清照の作風は大きく異なります。前期の作品は、自然の謳歌や少女時代の恥じらい、新婚の幸せ、別居の時の不安や哀愁などをテーマに描いていました。前期の作品から、私が大好きなものを一首ご紹介します。
如夢令 | (和訓) |
昨夜雨疏風驟 | 昨夜雨疏に風驟なりしが |
濃睡不消殘酒 | 濃き睡りも 残酒を消さず |
試問捲簾人 | 試に簾巻く人に問ふに |
却道海棠依舊 | 却りて「海棠は旧に依る」と道ふ |
知否 | 知るや 知らざるや |
知否 | まことに知らざるや |
應是綠肥紅痩 | 応に是れ 緑の肥えて 紅痩せしならむを |
のんびりしていて優雅な貴族女性の生活を描く詞です。朝、目が覚めて、夕べ酔いながら見た夢の中の風や雨を思い出しました。庭に植えた海棠の花はどうなったの?すだれを巻く下女との問答を通じて、海棠の花は雨にさらされた後、花がまばらになり、葉っぱが一層茂った景色を描き出しています。これと同時に、春に咲く花を惜しむ女性作家の気持ちも表しています。花が散ることによって、青春があっというに去ってしまうという淡い哀愁も表しました。これこそ、女性特有の繊細な視点でしょうね。
もう一首ご紹介します。
《点絳唇》
蹴罢秋千,
起来慵整纤纤手。
露浓花瘦,
薄汗轻衣透。
见有人来,
袜刬金钗溜。
和羞走,
倚门回首,
却把青梅嗅。
この詞はぶらんこに乗って、遊んでいた女の子が、すこし汗を掻いた衣を整えていました。この時、見知らぬ男が歩いてきました。中国では昔、結婚適齢の未婚女性は原則的に家族以外の男性とあってはいけませんでした。少女は恥ずかしくて、靴をはく暇もなく、靴下のまま逃げようとしました。そして、髪の毛に飾った金のアクセサリーを落としたことにも気づきませんでした。でも、好奇心から男の人を見たくて、門の闇に隠れた後、そっと振り返えりました。人にばれたら恥ずかしいと思って、青梅を手に持ってその香を嗅ぐ様子を見せました。少女のしぐさをくっきりと描写し、自由と恋に対する憧れを表しています。とても素敵ですよね。
宋詞は風格によって、婉約派や豪放派などいくつかの流派がありますが、李清照は婉曲な感情表現の婉約派の代表的な作家でした。中国現代を代表する文学者鄭振鐸は「李清照は宋の時代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女性詩人である」と評価しました。特に、中国古代に女性作家が少ないという環境の中で、非常に貴重な存在です。
しかし、とても残念なことですが、李清照は動乱の真っ只中に生きていたこともあって、作品の大部分は散逸してしまいました。現在、およそ50首ぐらいしか残されていません。李清照の作品には詞はもちろん、詩や文章もあります。李清照は若い時、ツーについての論評『詞論』を書いたこともあります。詞は「詩」とは違う別のジャンルのものだと主張し、当時の文才、晏殊や歐陽修、蘇軾の詞は「上手く書けなかった詩」だと酷評しました。自分の才能にかなり誇りを持っていたのですね。
李清照の人生は一生、波乱万丈でした。1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。44歳の時以降、人生に清照の人生においても、様々なことが起こり、作風に大きな変化が起こりました。その作品などについては、後半で紹介します。
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