安徽省といえば、黄色い山、黄山の観光が有名ですが、安徽省の中心都市、合肥からさらに南へバスで3時間も走ると、やがて大きな橋が見えてきます。銅陵の入り口、長江第一大橋です。長江をまたぐこの橋の上からは、何隻かの船がゆっくりと川をすすんでいるのが見えます。長江のすぐ傍にある銅陵市は、この川の恩恵を受けて発展してきました。
先へ進むと、鼎(てい)と呼ばれる、古代、肉のスープをつくるために用いられた器を模倣した、大きな青銅器のモニュメントがあります。
青銅器、これがこの銅陵のシンボルです。銅陵という名前は「銅が産出する山」という意味です。はるか3500年前から、この銅陵では、銅が採掘されていました。その証拠は、いくつもの遺跡が証明しています。
その遺跡の一つに、金牛洞古採鉱遺跡があります。1980年代に、銅の採掘をしようと地面を掘ったところ、昔の採掘に使われた、坑道や採掘道具、そして陶磁器の生活用具が出土しました。調査の結果、これらは春秋時代のものと推定されました。この遺跡は、市内からおよそ30分ほどの村にあります。入り口には、遺跡の存在を示す、大きな牛の像が置いてあります。この遺跡の名前の由来をガイドさんに教えてもらいました。
「金牛洞の名前の由来にはいろいろな説がありますが、一つは現地伝説によると、ここの洞窟には金色の牛が洞窟にいたため、金牛洞と呼ばれるようになりました。もう一つは、古代の中国語の中に、金の質には三つのレベルがありまして、質が一番低い金は実は銅です。当時は銅を発掘できる山には牛も多くいたため、金牛洞と呼ばれたのかもしれません」(ガイド)
ひっそりとした、この遺跡の周辺の大きな岩の下には、銅草花が咲いていました。この銅草花があるところには、銅があると言われています。ガイドさんによると、今でも、この大きな岩の下の部分には銅が、そして上の部分には鉄があるそうです。
中国の青銅文化は、紀元前2000~1600年にはじまり、周、そして春秋時代で最盛期を迎えます。鉄の出現により、その製作量はぐっと減りましたが、漢、清時代にも制作が続けられました。
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