馮国璋(1859ー1919)は北洋軍閥の一人です。河北省・河間県詩経村農民の家に生まれ、青年時代には河北省の保定蓮池書院に学び、1884年親戚の紹介で淮軍に加入しました。1885年李鴻章の創設による北洋武備学堂に学び、学堂の教員となりました。1893年、直隷総督聶士成の役人となり、中日甲午戦争(日清戦争)に参加したことがあります。その後、直隷総督聶士成の推薦で日本駐在の中国大使の軍事随員として日本へ赴きました。日本滞在期間中、積極的に日本の士官や将校と接触し、日本の軍事施設などを見学し、軍事分野の著作数冊をものにしました。帰国後、それを直隷総督聶士成に提出しましたが、それほど重要視されませんでした。そこで、袁世凱に贈りました。そのころ、袁世凱は新しい陸軍を創設中だったので、馮国璋の著作を高く評価しました。そのため、袁世凱に重用されるようになり、歩兵学堂の監督になりました。
1899年袁世凱と共に、「義和団運動」を鎮圧しました。1906年、馮国璋はまた一ついい機会に恵まれ、清政府から署正黄旗蒙古副都統兼陸軍貴族学堂の最高責任者に任命されました。
1911年10月、辛亥革命が勃発し、華中・華南では革命派優位で情勢が推移しました。清政府は袁世凱を第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じました。しかし、清朝不利を確信していた袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせたものの、自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わしました。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清王朝が滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任しました。
1916年の袁世凱の死後、勢力は段祺瑞と馮国璋に二分され、段祺瑞と対立する一方の雄、馮国璋が初めて表舞台に立ちました。これ以降、馮国璋が率いる軍隊は直隷派と呼ばれるようになります。1916年10月馮国璋は副総統に選ばれ、1919年、故郷の河北省で60歳で亡くなりました。
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