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李鴻章ー清の末期の政治家

2009-10-28 09:59:10     cri    

下関にある「李鴻章道」

李鴻章の肖像

ビスマルクの自宅にて

 李鴻章は清の末期の政治家で(1823ー1901)安徽省合肥の出身である。1847年科挙に合格して進士となった。1850年翰林院翰編集を担当。翰林院は皇帝の昭勅の作成を担当する官庁で、特に優秀な学者が勤務する部署であった。科挙の上位合格者がここに入るのである。

 1853年団練を率いて太平天国軍と戦い,ついで曾国藩の幕僚となり,湘軍にならい准軍(わいぐん)を編成,上海を防衛し江蘇巡撫に昇任した。太平天国滅亡後,一等伯爵に封ぜられ,1865年両江総督を署理,1866年欽差大臣として捻軍(太平天国に呼応して淮北(安徽・江蘇・河南・山東の交界一帯)におこった農民革命軍。捻とは淮北の方言で,組・隊の意。)の平定に当たる。1870年曽国藩を継いで直隷総督となり,北洋大臣を兼ねた。以来25年間その地位にあり,清の外交・軍事・経済に大権を振るった。洋務運動(中国で19世紀後半におこった上からの近代化運動。アヘン戦争・アロー号戦争などによって,欧米列強の強大な軍事力やそれを支える優秀な科学技術を認識した清朝の開明派の官僚は,従来の西洋文明拒否の態度をすて積極的にこれを導入して,清の支配体制の強化を計ることを上層部に要請した)の指導者として江南制造局など官営工鉱業の育成につとめ,関税収入を利用し「北洋海軍」を建設したが,甲午戦争(日清戦争)に敗れ,全権として「馬関条約」(下関条約)に調印しました。甲午戦争(日清戦争)の講和のために下田を訪れていた清の代表・李鴻章は引接寺を宿舎としていた。引接寺と交渉を行っていた春帆楼の間には、李鴻章が往復した小道が「李鴻章道」として 今、日本の下田でも残されています。

 1896年には「中俄密約」(露清密約)を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変(19世紀末,植民地化の危機に直面した中国の華北諸省でおこった反帝国主義的な大衆運動)では露清密約を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変では全権を委任され列強との交渉に当たり,辛丑(しんちゅう)条約を締結,まもなく病死し、78歳であった。

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