清の末期の政界でカギとなる人物が幾人か存在します。彼らの思想と活動がある程度国と民族の運命に影響を与えました。栄禄(1836ー1903)はその中の一人です。栄禄は満州正白旗人で、清王朝から「忠義」と称された官僚の家庭に生まれました。西太后の甥で光緒帝の従弟にあたります。彼の娘は宣統帝の母親です。西太后に信頼された大臣として、多くの重大事件に関わり、特に「戊戍政変」(1898年9月,西太后が戊戌変法といわれる政治改革を圧殺した清国の宮廷政変。干支紀年では戊戌の年にあたるので,「戊戍政変」と呼ばれる)と「義和団運動」を鎮圧した保守派として、名が知られています。
栄禄は1852年16歳の若さで官職につき、以後は内務府大臣、公部尚書、総理各国事務大臣などを経て、甲午戦争(日清戦争)中は歩軍統領となり軍務に参与しました。戊戌政変の開始直後に直隷総督兼北洋大臣として、北洋三軍を統率、袁世凱の密告を受けてクーデターを実行した。政変後は軍機大臣となり北洋海陸各軍を節制,また正規軍の整備統一と軍備充実をはかり、自ら軍を率いて南苑に赴任しました。光緒帝の廃立問題にも深く関与していました。義和団事件に際しては平和的解決をはかり、しばしば鎮圧を要請しました。8ヶ国連合軍の北京攻略後には、留京弁事大臣となり事後処理にあたり,のち西安に移ってからは政務大臣として新政に参与しました。1902年帰京後,太子大保・文華殿大学士を加えられましたが,翌年で病死し、67歳でした。