会員登録

<改革開放30周年>深圳、漁村から現代都市へ

2008-12-18 10:15:22     cri    

 今年は中国が改革開放を始めて30周年に当たります。30年間の改革は中国に大きな変化をもたらしました。その中で、一番わかりやすい例は小さな漁村から現代都市になった深圳です。

 今日のこの時間は、深圳の漁村から現代都市への歩みを一緒に顧みましょう。

 60歳近くの湯文彪さんが生まれたのは広東省宝安県南部のある漁村で、川の向こう側は香港です。湯さんが若いころ、村の生活が貧しく、ほかの村人と同じように、越境して香港へ行って金儲けをしようと思ったのです。

 「小さいころ、ここは毎年雨季になると、少なくとも二回洪水に見舞われ、2メートルぐらいになる。あの日は豪雨で大洪水になった。あれは香港に行く最高のチャンスで、その日に多くの人が香港に行ったと聞いた」

 中国の改革開放のシンボルの一つ、現代都市深圳はこの漁民村という漁村から発展してきたものです。この村と香港の境となる川の一番狭いところはわずか20メートルです。その時、香港に行く若者が多くいました。

 「クラスメートの多くは香港に行った。特に1972年、教室いっぱい座っていたのに、次の日に三分の一がいなくなった。みんな香港に行っちゃった」

 村を出たのは貧しかったからです。1978年の調査で明らかになったところでは、その時、経済状況の一番いい村でも一人平均年収はわずか134元でした。70年代に宝安県の県知事だった方苞さんはずっとこのことに悩まされていました。しかし、村人の立場から見ると、理解できないことはないと思っていたのです。

 「これにはみんな豊かになりたい気持ちが含まれている。しかし、その時の体制はその豊かになろうという意欲を妨げていた」

 方さんが言った体制というのは、中国が計画経済体制の下での様々な制限のことです。例えば、出稼ぎと民間経済に対して制限があります。10年間も続いていた「文化大革命」が終わって2年間しか経たないのに、政府は経済建設に力を入れようと呼びかけましたが、人々が「文革」のトラウマがあり、経済建設に対して経験もありませんでした。そこで、宝安県では、川の向こうの香港へ行くことは村人にとって唯一豊かになるチャンスでした。

 1979年4月、広東省は地理的な優位性を生かし、沿海地域で一部の土地を利用して、輸出加工や貿易協力をするゾーンを設け、外資を導入することを中央政府に提案しました。

 それに対し、中央政府からの答えはもっと大胆なものでした。経済特区を設立することです。翌年、全国人民代表大会で深圳経済特区の設立を許可されました。許可を得て特区で使う生産や消費関連の輸入品はゼロ関税を実施し、経済特区から大陸へ輸送する貨物や物品に対して一般輸入関税を徴収することになります。

 これで、漁村中が動き出しました。特区にはインフラ整備が必要で、村の若者が漁船で建築資材を他所から輸送したりしました。わずか2年間、1981年末、村人は水産品の養殖や輸出加工などで、世帯あたりの平均年収は3万3000元まで増えました。

 これで、方苞さんの心配が消えました。もう越境で悩まされなくなりました。村人が努力すれば豊かになれることを見て、外に出るどころか、すでに出た人には次々に戻ってきていたのです。

 しかし、このように豊かになった村人は落ち着かないのです。「これはまだ社会主義なのか」と疑ったり、「政策がいつか変わるかも」と心配したりするようになったのです。1984年鄧小平氏の深圳視察でこのようなやり方を認めた一方、政策の継続を約束したことで、人々が落ち着くようになりました。

 疑いや心配ごとを晴らしてから、成長のスピードがいっそう速くなりました。深圳の三日間で一階のビルを建てる「深圳速度」と「時間は金なり」という「深圳モットー」があっという間に全国で広がっていたのです。漁村でも「漁豊実業株式会社」が設立され、いくつかの加工工場ができ、村人は別荘に住むようになったのです。

 しかし、新しい問題が出てきました。村人で漁豊会社の黄興炎社長は90年代の様子を思い出して、次のように話しています。

 「村人は勝手に家を建てて、どこも汚くてめちゃくちゃだった。隣に住んでいてもかかわらないようにしたり、また、敵対状態だったりしていた」

 特区の経済発展に伴い、大勢の人が他所から深圳に入り込んで、住宅不足が目立っていました。村人は金儲けのために自宅の建物の階を増やしたり、狭い空き地で建物を建てたりして、住宅の密度が増されました。隣り合っている建物から手を伸ばすと握手できると言われるほどでした。

 90年代に入って、深圳は労働力密集型モデルからハイテク技術型経済へ転換する際、多くのハイテク人材がここに来てから、村人が勝手に建てた低家賃、低品質の住宅には市場がなくなったのです。

 このような状況を見て、村人が慌てました。漁豊会社の黄興炎社長は自分の考えを次のように述べました。

 「特区の管理に従わないとためだ。都市は発展している。都市が発展すると、村も発展しないとどんどんかけ離れてしまう」

 2000年、漁村の再建工事は政府の発展計画に盛り込まれ、再建後の漁村の住民は高学歴、高収入の人をターゲットにして、統一に企画・管理された住宅が建てられています。

 新しい住民は村に収入をもたらしています。村人は新しい住宅地で文化広場は造り、定期的に各種文化活動を行うほか、毎年村民旅行も出かけています。

 全国から見れば、深圳は改革開放の縮図で、テスト地、中国で最も発達した豊かな地区の一つです。また、上海と同じ、金融センターでもあります。しかし、かつての貧しい漁村からここまで辿り着いた道程は順調なものではありませんでした。今から見て当たり前のやり方は、始めはいけないことだったのです。これを思い出すと、改革開放を提唱した人に頭を下げなくてはなりません。

関連ニュース
写真トピックス
コメント
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS