張抗抗は中国の現代女流作家です。新聞関係の仕事をしていた父親と教育者で児童文学者だった母親との間に、1950年7月、杭州に生まれました。父母二人ともかつて、抗日救国運動に参加しており、さらに彼女が誕生したのがちょうど朝鮮戦争が勃発した時期であったために、両親は彼女に「抗抗」と名付けたのだということです。
1969年、杭州から志願して黒龍江鶴立河農場に下放。農場で8年間労働したあと、1977年、ハルピンの黒龍江省芸術学校に入学し、演劇の創作を学びました。1979年、黒龍江省文聯に移り、創作に専念します。1980年中国作家協会文学講習所第五期の学習に参加し、この年中国作家協会に加入、1982年には国際ペンクラブ中国ペンクラブセンターに加入しました。少女期から文学を愛好し、農場で労働していた頃は、仕事の合間に創作を学び、新聞や雑誌に散文や小説の習作を発表しました。1979年、短編小説「愛的権利」を書き上げ、翌年には「夏」が全国優秀短篇小説賞を、「淡淡的晨霧」が全国優秀中篇小説賞を受賞しました。1983年、「紅罌粟」が第一回上海文学賞を受賞。今までに2冊の短篇小説集、2冊の中篇小説集、2冊の散文集を出し、創作談、児童文学などと合わせて200万字余りの作品を書いています。そのうち短篇、中篇、散文の一部は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語などに翻訳されて国外に紹介されました。
次に張抗抗が、自分の創作経験に基づいて、中国の小説の今後について語った内容をご紹介します。
「中国の経済と社会状況がこのまま発展して行けば、マルチメディアの発達によって、10年後には小説は少なくなっているだろうと思います。1979年に『夏』という小説を書いたとき、私は29歳でした。若い人たちの気持ちに関心がありました。ですからその頃の『愛的権利』や『北極光』といった作品は、基本的に新時代の初期の若者たちの内心の渇望のようなものを書いたのです。その後私は若い世代のインテリたちの生活を描きました。それで私と同年代の当時30歳前後だった人たちの好評を得ました。10年後彼らは40歳を越え、私も若者の生活を描いた小説を書かなくなりました。若い人たちとは距離ができたのです。我々が関心をもっていることも、我々の生活も変化してしまいました。そこで『情愛画廊』を書いたときは、もっと新しい読者を獲得するために、30歳前後の私より若い人たちを読者として想定しました。その後、書店からのフィードバックでわかったことは、この作品を買ってくれる読者の大半が若い人であるということでした。70年代末に描いた岑朗のような個性の解放の要求は、単に水着の写真とか個人の意見を自由に言いたいとか、男子学生と純粋な関係を保ちたいとか、そのような純粋なものでしかありませんでした。それは70年代末の中国が愛情や個人の自由を獲得したいという情況にあったということです。90年代中期の『情愛画廊』は、同じように若者を描いてはいても、愛情の経過や表現方法、内容は、岑朗の時代とは大きく異なっています。ですから、『情愛画廊』の若者は、岑朗たちが90年代に変化を遂げた姿なのだと言えるでしょう。文芸評論家の白燁が『愛的権利』と『情愛画廊』の比較を行なっています。愛情のあり方や内容にどのような変化が見られるか。表現の仕方にどのような変化が見られるか。どの点に継続性があり、どの点に方向転換があるか。私は、岑朗は90年代に別の人物に変わったのだと考えます。ただ21世紀になっても岑朗は、精神の自由、精神の独立を追求するという点では変わりがありません」
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