1968年10月、廖昌永さんは中国南西部の四川省のある農家で生まれました。ただ一人の男の子ということで、家族を喜ばせたが、7歳のとき、父を亡くしました。その後、母や3人の姉に支えられながら、学校に通っていました。
1978年から、国では改革開放が始まり、これまで見聞きもしなかったものがどんどん入ってきていました。
そんなある日、いつも農村の村内放送が使うラウドスピーカーから流されたものに、廖さんは心を奪われました。
世界の3大テノール歌手の一人として有名なプラシド・ドミンゴの歌でした。歌っているのは、イタリアの名曲「オ・ソレ・ミオ」・「私の太陽」。
「改革開放が進んでいるのですが、やはり農村は多少遅れている。西洋音楽などは、都会では少しずつ普及しているかもしれませんが、農村では、全然聞いたことがないので…だから、あの瞬間、突然外国の音楽、しかもポップスではなくて、テノールが聞けたなんて、すごく興奮というか、心の中から、嬉しさが湧いてくるような感じだった。これこそ、私がほしいものだと、思っていたのだ」(廖昌永)
西洋音楽への好奇心や愛着をもって廖さんは、19歳のとき、上海音楽学院に入りました。しかし、ピアノを弾くどころか、見たことさえなかった彼には、音楽を学ぶことは予想をはるかに超えて難しかったです。コツコツ頑張っているが、音楽の基礎はまったくなかったため、進歩は遅かったです。
ある日、学生たちを短期指導するため、外国から声楽の専門家がやってきました。とりあえず、クラス全員にそれぞれ、自分が得意だと思う歌を歌わせました。廖さんが歌ったのは、イタリアの作曲家・ヴェルディの作品でした。しかし、それを聞いた専門家は首を振りました。
「全然だめ。みっともないんだ!…あなたはここで誓ってくれ!『これから、ヴェルディの作品を2度と歌わない』と誓ってくれ!」
音楽への期待を持って都会に来た廖さんは、スランプに陥りました。
「とにかく、大きな打撃を受けたね。音楽学院に入ったばかりのころは、音楽に親しみさえ持てば大丈夫だと思っていたが、でも、最初の学期末試験の成績を見たら、クラスでどんじりだと、わかった。そして、その外国人専門家に、『もう2度と歌わないでくれ』って言われて、本当に、悔しいって気持ちだね。自分に対してがっかりしたし、将来のことを思うと疑問を持つようになった…」(廖昌永)
負けず嫌いな性格の廖昌永さんは打撃を受けたものの、たゆまぬ努力で少しずつ立ち直っていました。ちょうどそのころ、中国声楽界の有名人にめぐりあいました。周小燕。中国初めてのソプラノ歌手。1940年代、世界中をまわって公演を行い、「中国のウグイス」と呼ばれていました。
廖さんの執念に感動して、いきなり弟子として受け入れました。
1993年、廖さんは、クラス1位の成績で上海音楽学院を卒業しました。
その後、1996年から1年のうち、第41回トゥールーズ国際声楽コンクール、ドミンゴ世界オペラコンクール、ノルウェーのソンヤ皇妃国際声楽コンクールの3大会で連続して優勝しました。
そして2001年、ワシントンで行われたオペラの公演で、廖昌永さんが、主演を務めました。ヴェルディの作品『トロヴァトーレ・吟遊詩人』でした。公演後、地元のメディアは、こう評価しています。
「今夜の舞台には、中国から来た廖昌永氏が最も輝いた星だ。生まれつきヴェルディのオペラに向いている歌手で、全身からヴェルディの息吹が伝わってくる」
以前、アジアの人とは無縁だった「ドミンゴ世界オペラコンクール」。廖昌永さんが優勝したことによって、歴史を変えました。廖さんはアジア人として初めての優勝という、まさに奇跡を起こした大人物になりました。
廖さんは現在、上海音楽学院で声楽科の主任を務めています。「いま、オペラ人材の育成を最優先にする」と、彼は語っています。
「たとえば、まったく歌えない自分の学生が、だんだん歌えるようになって、しかもうまくなってみんなに親しまれる歌手になる、という成長の過程を見ると、やっぱり感動するのだ。そういうときはいつも、自分のことを思い出すのだ。こうやって私が学生に教える、その学生もいつかは先生になる、ということを通じて、音楽や芸術はずっと伝わっていけばいいなと思っているのだ」
(鵬)
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