いまは紹興酒となっているお酒を常に呑んでいた王徽之にまつわる、興に乗じて来たると言う成語をご紹介しました。
ところで、時はさかのぼりますが、前漢の秦末期の戦乱後、当時の支配者は、経済再建のため庶民の納税を軽くしたので、これは農業生産の発展を引き出し、商業をも促したことから、天下は安定を取り戻し、人々の暮らしもよくなり、それにつれお酒の消費量も増えたと言います。紹興は中国の東部にあることから、北方のようにキビや粟ができないので、ここら一帯では、米を主な材料としたお酒が醸造されました。もちろんいまのようにおいしい紹興酒ではなかったでしょうが、、いまよりうまかったのかな?当時出来たお酒は上等のものだったということです。そして後漢時代、紹興一帯では運河が切り開かれ、大規模な水利工事がなされ、西暦140年ごろには地元の最高責任者が民衆を動員して湖をつくり、周りの山から流れる水を集め、これは後の醸造業に大いに役立ち、紹興酒がその後名を上げていく上での前提条件になったとのことです。
さて、魏から晋に変わる時代、支配階級内部の権力闘争は激しくなり、このすさまじい争いから逃れるため、多くの氏族の人々や有名人が、会稽、これはいまの浙江の紹興東南にあったところですが、この会稽に逃れたりしたので、地元の醸造業は大きく発展しました。昔の本「晋書」には、地元出身の孔群という人は、かなりの酒飲みで、ある時友人に、今年は七百石ものモチキビが取れたが、酒を造るには足りぬといったそうです。中国古代の七百石というと,40トン以上かな?間違っているかもしれませんが、何しろをすごい量なのに、まだ足りないとは、この人は大酒のみですね。ま、これは極端な例でしょうが、なにしろ、多くの大酒飲みがここに集まったようです。そして、ここではかの王羲之と名士である謝安、孫綽(しゃく)らが集い、紹興の酒を飲み詩歌を作ったとことで知られています。
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