段祺瑞(1864ー1936)安徽省合肥生まれ、北洋軍閥、政治家です。1885年北洋武備学堂砲兵科に入学、1889年に卒業後、清政府の派遣でドイツに留学。帰国後、天津で袁世凱の新軍練兵を助けました。袁世凱に重用され、トントン拍子に出世し、1902年北洋軍政司参謀処総辧、そして1910年、江北提督に就任。王士珍・馮国璋とともに北洋三傑と称されるほどになりました。
袁世凱のもとで、義和団運動の鎮圧に参加。辛亥革命の際は、湖北に出兵して鎮圧にあたり、その後は袁世凱の政権樹立に尽力しました。そして1912年、袁世凱政権の陸軍総長、翌年代理国務総理となりました。また、第二次革命の鎮圧にあたっては、数万人の革命人士を殺害し、孫文や黄興ら辛亥革命の指導者は再び日本に亡命せざるをえませんでした。1916年、袁の死後、国務総理にまで上りつめ、北京政府の実権を握りました。
その後は、安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争いました。そして外国の支持を得るため親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から"西原借款"を受けました。この"西原借款"とは、寺内正毅内閣が当時の中国政府(実際には段祺瑞が指導する北洋軍閥)に与えた貸し出しのことです。借款の内容は現金供与1億4500万円、武器供与3000万円、合計1億7500万円。そして第一次大戦の際は、連合国側に参戦しました。翌年、政治権力争いにより大総統・黎元洪に総理の地位を追われますが、その後、また国務総理に返り咲き。暫定憲法の制定と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧しました。
1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚。その後、1924年には第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となるものの、1926年、馮玉祥に追われて下野しました。のちには国民党政府委員を務めるなどしましたが、1936年に病死。72歳でした。
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