セントルイス(アメリカ)とバンクーバー(カナダ)が1980年冬季五輪の誘致に動いたが、投票直前にバンクーバーが棄権。セントルイスが唯一の立候補として、第13回大会の開催権を獲得した。ストックホルム(スイス)とアムステルダム(オランダ)に続いて、2回目の冬季オリンピックを開催する都市となった。
初のオリンピック開催となった1932年以降、この山間の人口が少ない(1932年は2000人未満、1980年現在2700人)町が、ウインタースポーツの名所となった。しかし、すでに当時の施設は老朽化が進み、今大会には使用には耐えないことから、組織委員会は、増・改築工事に着手した。選手村や二つのジャンプ台、ボブスレー場などを新築し、メインのアイスリンクも修繕した。
組織委員会は、多大な努力を払ったが、様々な問題に頭を痛めた。セントルイスは、確かに大会の開催経験を持っているが、参加人数も大会規模も1932年当時とは比べ物にならない。大会期間中、選手を含め世界各国から5万人がやってきたのだが、特に市内の交通関係で、いくつか問題があった。例えば、30キロクロスカントリーの表彰式に参加するはずのIOCのムザリ副会長が車の渋滞のため行けなくなり、代わりにキラニン会長が出席したなどのトラブルがあった。
雪にも随分、悩まされた。この冬、セントルイスには雪があまり降らず、人口雪を使わざるをえなかった。しかし、不運にも開幕式前日に吹雪が訪れ、天然の雪が降った。人口雪と天然雪は一緒に使用することができないため、やむなく、人口雪の取り除き作業に多くの労力が割かれた。
大会は2月13日から24日にかけて行なわれた6競技38種目が設けられ、37の国・地域から1072人(女子233人、男子839人)が参加。今大会は中国が始めて参加した冬季大会でもある。そのほかにコスタリカ、キブロスも初出場した。6703人のボランティアが大会運営に携わった。
今大会では、素晴らしい記録が続出した。男女スピードスケートの9種目だけでも、63人がのべ108回大会記録を破り、世界記録を1度、更新した。中でも、スピードスケートのヘイデン選手(アメリカ)の活躍は特筆に価する。1976年のアムステルダム大会では、わずか17歳でデビュー。2回目の五輪出場となったセントルイス大会は、彼が主役となった。2月14日、500メートルで、大会記録を更新して優勝。2日後の5000メートルでも、またやはり大会記録を破った。さらに、続く1000メートル、1500メートル、10000メートルでも、表彰台のトップに立った。特に10000メートルでは世界記録を塗り替えた。一つの大会で金メダルを5つ獲得するのは史上初。文句なく、セントルイス大会のMVPに選ばれた。
1979年、IOCに復帰した中国は、初めて冬季大会に選手を派遣した。男女28人が、スケート、スキーなどの18種目に参加したが、当時は冬季スポーツのレベルが低く、6位以内に入った選手は1人もいなかった。
メダル争いでは、旧ソ連が金10個、銀6個、銅6個で連覇。東ドイツ、主催国アメリカが続いた。
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