当時、欧米諸国と比べて、日本のウィンタースポーツはそれほど大きな実績はなかった。メダル獲得も、第7回コルティナ・ダンベッツォ大会で猪谷千春がスキー・アルペン回転で得た銀メダル一個のみ。しかし、第11回大会は日本の札幌が、カナダのバンフ、フィンランドのラハティ、アメリカのソルトレークを破って、開催権を獲得した。これは、オリンピックを異なる国・地域で行なってこそ正真正銘の国際大会になる、という組織委員会の考え方の表れである。オリンピックの目的は、メダル争いだけでなく、オリンピック精神の発揚、普及にその本質が置かれるべき・・・この思想が、これといって実績を持たない日本での開催が実現した理由といえる。
1924年第一回以来、冬季オリンピックが初めて欧米以外の大陸、しかも人口が最も多いアジア大陸にやってきた。これは、アジア、特に日本のウィンタースポーツの発展に積極的な役割を果した。
札幌大会は、1972年2月3日から13日にかけて行われた。参加したのは35の国や地域で、選手数が1006人(うち女子選手が206人)。フィリピンが初めて冬季大会に参加。大会の報道に携わった記者の数は3895人に上った。
スキー(70mジャンプ)では、日本の笠谷幸生がアジア人初の金メダルを獲得。2位、3位も日本人選手が独占して、メダルを独占するという快挙を成し遂げた。またスピードスケート長距離のアルト・シェンク(オランダ)は1500・5000・10000mの三冠を達成した。
メダル争いは、旧ソ連がスピードスケートで前回に続いてメダル獲得に失敗したものの、スキーで抜群の力を発揮し、あわせて金メダル8個を獲得。ランキングトップとなった。また、東ドイツが地道な強化に成功し、競技レベルが急上昇。第2位に躍り出た。続いて、スイスとオランダがそれぞれ3位と4位となった。
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