第7回冬季オリンピックの誘致に動いたのは、ノルウェーのオスロ、アメリカのコロラド・スプリングス、イタリアのコルチナダンペッツオの3都市。コルチナダンペッツオは、1944年と1952年の大会を招致したが、失敗に終わっていた。1949年行われたIOC・国際オリンピック組織委員会ローマ総会で、第7回冬季大会の主催地が、このコルチナダンペッツオに決定した。
コルチナダンペッツオは、イタリアの山間にある小さな町で、当時、人口は6千人。しかし、内外に名を知られるウィンタースポーツのメッカであった。1897年、スキーの大会がここで開かれたとの記録がある。また1902年からは、スケートの大会が頻繁に行われるようになった。さらに1908年にはボブスレーが加わった。第1次世界大戦の後、発展を続け、ホテルが並び立ち、多くの観光客やウィンタースポーツの愛好者が訪れる町となった。
その後、1927年には、スキーの世界選手権、1928年には、ユニバーシーアード冬季大会などが開催された。
1949年、オリンピック大会の開催地に選ばれてから、町には、1 万人収容のアイスリンクを始め、世界トップレベルの競技施設を整備した。
この大会では、4競技24種目が設けられた。33の国や地域から820人(女子が132人)が出場。イラン、ボリビア、旧ソ連が初めて選手を派遣した。また西ドイツと東ドイツが、共同で、『ドイツ連合』を結成して出場したことで、注目された。
旧ソ連は冬季五輪初出場ながら、元々ウィンタースポーツが盛んな国。旧ソ連の参加により、ノルウェー、フィンランド、アメリカがメダルを独占していた情勢に変化が現れた。全25個(スピードスケートで、2人が優勝となった)の金メダル争いで、旧ソ連がいきなり1位に躍り出た。オーストリア、フィンランドが続いて、2位と3位。"ウィンタースポーツ強国"のノルウェーは7位に終わった。
総じて言えば、コルチナダンペッツオ大会は、成功したと言える。その一つに、観客動員の成功が挙げられる。15万7000枚のチケットを世界に向けて売り出し、多くの人々を冬季スポーツの世界に引き込んだ。また旧ソ連の参加は、ノルウェー、フィンランド、アメリカによるメダル独占状態を打ち破り、冬季オリンピックをさらに発展させる原動力となった。
また大会の模様は、初めてテレビ中継された。また、フィギュアスケートを屋外で行った最後の大会となった。
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