26日の「琉球新報」の報道によりますと、福建省福州市にある福建師範大学構内で2006年に確認された首里王府の役人「源河親雲上」(1673ー1718年)の墓碑がこのほど、子孫の要請を受けて大学に隣接する琉球墓園に移されたということです。
源河親雲上は進貢船を迎えに行く接貢船の副使節で、会計係に当たる「才庫官」を務めた。名を「朝忠」、中国名は「向維藩」という。1717年に福建に渡り、翌18年に現地で病死した。
「朝忠」の墓は1960年代に福州市の文物保護管理委員会や専門家による琉球人墓地の発掘で見つかり、80年には朝徳さんの兄の朝康さん(故人)らが墓参団をつくって訪中し、確認した。しかしその後、経済発展に伴う開発で琉球人墓地があった一帯にも道路や大学建設が進み、「朝忠」の墓も行方が分からなくなっていた。墓の所在を確認しようと、2006年8月には朝徳さんらが再び福州市を訪問。当初、墓は見つからず、あきらめかけたところに、琉球人墓の研究者で朝忠の墓の場所を唯一知るという徐恭生氏の情報を得、徐氏に案内され、大学構内で土に半ば埋もれた墓碑だけを発見した。朝徳さんは帰国後、親族で話し合い、琉球墓園への移転を求めて福州市に嘆願書を出し、墓碑の移転が実現した。昨年11月に源河親雲上の子孫である源河朝徳さんが家族らと共に同墓園を訪れた。祖先のみ霊に手を合わせた。
現在「朝忠」をめぐる歴史について記念誌を執筆中の朝徳さんは「過去の歴史を知ることで今、私たちがどうあるべきかということも見えてきた。中国との交流の歴史を大切にさらに友好を深めたい」と話している。
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