正しい「情報交流」が 日中関係を改善する
王 健(おう・けん ワン・ジェン) 1957年生まれ。中学卒業後、上海の機械工場で5年間勤務。79年上海復旦大学入学、中国文学専攻。83年上海復旦大学卒業後、中国新聞社入社。上海分社にて記者、主任記者、副社長などを歴任。最初の日本駐在は90年から95年まで。03年8月に再来日、現在にいたる
中国新聞社は世界中の華僑向けに情報を配信している通信社だ。新華僑が増えた今日も、華僑向けにニュース配信を行っている。とはいえ、激動する中国にあって、その主たる業務にも大きな変化が。そこで、中国新聞社東京支局長の王健氏にそのあたりについて聞いてみた。
聞き手:張国清北京放送東京支局長。この取材内容は日本東方通信社の編纂による週間雑誌「コロンブス」2007年4月号に掲載されています。
最近の日本には 焦燥感が漂っている
張国清・北京放送東京支局長:王さんはどのような経緯で中国新聞社に勤めることになったのですか。
王健・中国新聞社東京支局長:私は上海復旦大学という大学で中国文学を学んでいました。卒業後、中
国新聞社に入社したのです。当時は自分で職業を選ぶというよりは、国から職業を与えられるのが主流だったのです。中国新聞社は日本でいうところの新聞社とは違います。中国語で「新聞」とは「ニュース」のことを指すのです。つまり、新聞社とはニュース配信を行う会社のことですから、日本語でいうところの通信社にあたるわけです。
張:とても日本語が流暢ですが、大学の頃から勉強していたのですか。
王:私が在籍していた頃、上海復旦大学の学長は著名な数学者の蘇歩青氏でした。私は79年に入学したのですが、ちょうどそのとき蘇学長が「中国文学部の一部の学生は、試しに日本語も学んだら」という指示を出したそうです。そのため、わずかではありますが、大学時代に日本語の勉強をすることになったのです。ですが、けっして話したりできるレベルではありませんでした。
張:日本語教育を多少受けていたことで、東京支局勤務に任命されたのですか。
王:そのようです。当時、中国新聞社には日本語のプロはひとりしかいなかったのです。そこで、私が指名されたのです。
張:ということは、本格的な日本語の勉強は、来日してからですか。
王:勉強するというより、仕事と並行しながら日本語を習得したのです。友人のススメで、自宅では毎日毎晩テレビをつけっ放しにしていました。つねに日本語を耳にすることで、早く慣れようとしたのです。おかげで、半年ほどで、ほとんど日本語を読んだり聞いたりすることができるようになりました。
張:初めて来日したときの日本の印象はいかがでしたか。
王:実をいうと、1度目の来日の際は、日本というと映画のイメージしかありませんでした。高倉健、栗原小巻といったイメージです。中国で日本映画は大人気だったのです。また、テレビドラマの「おしん」のイメージも強烈にありましたね。ですから、いざ来て見ると、すべてが新鮮でした。とりわけ90年はバブルの最盛期、まさに夢の世界だったのです。実際、どこに行っても活気に溢れていました。それに日本と中国の経済格差はかなり広がっていましたからビックリするのも当然です。 が、日常生活についてもあまりギャップを感じませんでした。というのは、文字、顔つき、肌の色、生活習慣などが似ていて、親近感を抱くことができたからです。それに日本の人たちは道を聞いても親切に教えてくれました。(つづき)
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