寿司に魅せて <健康で、美味しい寿司を中国人に>
1995年の北京。日本料理はまだ、一般市民の生活と無縁な存在だった。ある冬の日、朝陽区の日本食「青葉」の店に、珍しくも中国人の親子が入ってきた。「誕生祝いにほしいものは?」と父親が聞き、少年は「日本料理を食べたいな」と答えたからだった。「青葉」は少年の家から至近距離だったのに、それまで一度も入ったことがなかった。
現在、北京在住の日本人の間で大評判になっている『江戸前寿司』の経営者・姜炳昇さんは、こうして自分が日本料理とめぐり合えたと振り返る。32歳。温厚で、誠実な人柄。かつて、6年間日本で暮らし、寿司職人の道を極めていた。去年5月に中国に戻り、今や仙台生まれの日本人妻と2歳の息子と故郷の北京で生活している。
当時の彼は中等専門学校を出たばかりで、中華料理の調理師を目指していた。父が誕生祝いに奢ってくれた日本料理は「おいしかったし、見た目も綺麗だった」。惚れて、一目ぼれしたようだった。即座に、後に「親方」と崇めた日本人板前さんに「ここで勉強させてください」と食い下がった。
「青葉」で働くこと3年余り、「本当の板前になりたければ、日本に行って修業を積んできてください」と親方から叱咤の言葉を受けた。その親方が自ら身元保証人になり、自分の故郷・仙台に姜さんを送り出した。
「腕を磨き、将来北京に戻って、店を開きたい。中国人でも気軽に食事できるおいしい寿司屋を」。1999年、姜さんはこう心を決めて、日本行きの飛行機に乗りこんだ。
日本語学校に通う傍ら、寿司屋でバイトをしながら、修業を積んでいた。最初の一年余り、「まったくものになってない!」と師匠の怒りに触れ、握りあがったばかりのジャリがゴミ箱に捨てられたことが度々だった。「もう乗り越えられない」。くじけそうになった時、優しく支えてくれた人がいた。同じ店内で働く6歳上の日本人女性だった。結婚を決めた時、北京の両親が猛反対し、「生まれて初めて両親と喧嘩した」。慌ててフィアンセを連れて北京に戻り、両親に引き合わせ、「将来は必ず二人で北京に戻ってくるから」と約束して、ようやく納得してくれたという。
「妻のお陰で、日本での生活にすぐ慣れたし、落ち着いて修業に専念できた」。「外国人板前が寿司の雰囲気と合わない」という枠を突破するのに、人目の触れないところで地道な努力を重ねていた。「仕事の時は全力投球し、決して練習のつもりではやらない」。帰国前まで、売り上げと規模が「東北ナンバーワン」と呼ばれる仙台の寿司専門店の店長を任せられ、弟子さんまでつくようになっていた。
昨年5月、会社の大連進出に伴い、しばらく大連で仕事していたが、自分の店を開きたい夢が捨てきれず、昨年末に思いっきり北京に戻り、北京のCBD(センター・ビジネス・エリア)・建外SOHOで300坪、100席の『江戸前寿司』を開店した。大連、台湾、北海道などからの魚介類で彩る調理台から、くじらの寿司まで出してもらえるとは驚きだった。美味しい上、値段も手ごろで、出前サービスもり、開店やいなや北京在住日本人の間で大好評になった。毎日、来店者の国籍をこまめに統計している。その結果、最初の一ヶ月は99%が日本人だった。しかし、姜さんはこれを決して喜ばなかった。
「中国人に寿司を食べてもらいたいことが夢で、対象者はあくまで中国人。それに、北京在住の日本人はわずか2万余り。対して、全国の中国人が13億もいる」。中国人客を増やすため、寿司の健康効果をアピールするホームページを立ち上げたり、雑誌に広告を打ったりして、努力の結果、現在、毎月3~4%の割合で増えていると綻ばせた。
6人の板前が全員中国人で、全員姜さんの弟子。「2008年まで、北京や全国でチェーン店を増やしたい。究極な目標は、中国ナンバーワンの寿司屋になること。可能ならば、上場もしたい」。大きな夢を語る時でも、落ち着いた口調は変わっていなかった。
「やりたいことがあれば、急いで始めたほうがよいぜ」。その後も北京で暮らし続けている青葉の「元」親方とは、今も親しい間柄である。
「寿司は私の人生そのもの。これからも美味しい寿司を作り続けたい」。
食べる人も作る人も中国人が主流になっていく中国での日本料理。姜さんはこれからも本格的な美味しさを余すことなく出していくに違いない。(王小燕)
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