私が最初に北京放送の存在を知ったのは、たしか55歳のころだったと記憶しています。戦争が終わり、戦争で疲弊した日本が経済的に立ち直り、世の中が派手になり、猫も杓子も金・金・金・・・金を得ることが人としての幸せ。尊厳・自由・人とのつながり・真実・愛・正義などは、一笑に附されるような世の中になっていくのでした。
そんな世の風潮の中、夫を早く失い、一人、息子を育てる私は、ポツンと世の中で孤立したかのようでした。
そんなある日、ある人に連れられて、岡山市の小さな町を訪ねました。「中国を知る会」と、墨痕鮮やかな看板をぶら下げた事務所風の小さな建物。ガラリと表のガラス戸を開けると、土間の上に机を置き椅子に腰掛けているひとりの痩せた老人が、皺の寄った顔に微笑を浮かべてやさしく迎えてくれました。
私は、この老人・Mさんの風貌えお見た瞬間、何か、心が救われるような感じを受けました。Mさんは、しわがれた声で「北京放送を知っているか?」と問いかけ、私が首を横に振ると、「とにかく、北京放送を聴け」と言うのです。中国の全貌を知るには、まず北京放送だと、いろいろ教えてくれました。
私は、帰り道、電気屋に立ち寄り、弁当箱くらいのラジオを買いました。その夜、北京放送を初めて聞いた、あの一瞬の感激は、私にとって忘れられないものです。
何よりも驚いたのは、アナウンサーの美しい標準語。アクセントのやわらかい、東京弁でした。私は北京放送に惹かれていきました。毎日聞くうちに、ニュース・音楽・文学・歴史・その他もろもろを知り、大変物知りになりました。
また、アナウンサーのみなさんが、日本の実情についてよく知っているのにも感心しました。
私は、Mさんがなぜこんなに中国を応援するのか疑問を持ち、問わずにはいられませんでした。以下は、Mさんのお話です。
実はMさんは、戦前、岡山市でガラクタ商を営んでいました。一時、かなり羽振りのいい時もありましたが、戦争が長引き、不況は続き、借金も増え、妻と男の子2人を抱えた生活は楽ではなかったそうです。いっそ一家心中でもしたら楽だと思うほど、日に日に窮乏していったのです。
ところが、ある日、上海商人だという中国人男性がMさんのもとを訪ねてきました。そして、Mさんに、「日本の純綿の布がほしい」と相談しました。日本の木綿の古着をつぎはぎして服を作り、「苦力(労働者)」に安く売れば、彼らはかなり助かるのだそうです。上海商人は、Mさんに、それを引き受けてくれないかと商談を持ちかけてきました。
商人はいくばくの資金を置いていきました。Mさんは翌日から自転車に乗り村を駆け巡り、百姓の家の押入れの奥に眠る、純綿の浴衣や布団を安く買いあさりました。百姓たちも現金はほしいのです。家に置いても一文にもならない古い布が、とにかく金に換わることがうれしいのか、かなり大量を買うことがdけいたそうです、家では、Mさんの妻が、ボロボロの部分は切り捨て、使用に耐える部分は縫いつなぎ、服を仕立て上海に送りました。
そして、上海からは、確実に代金が送られてきました。何回か続ける間に、家の借金は消えて、少しずつ生活が楽になってきました。(つづく)
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