初めての訪中時(1988年3月)、日中友好交流で北京市内のペンフレンドを通じ、アポ無しで復興門外の放送局に、日本酒を持って行きました。しかし、警備が厳しく、約束無しでは取り次いでくれませんでした。当時は電話も珍しく、今のように直通電話が無い頃、手紙で、アポを取るのは困難でした...。返信文はガリ版で刷った、お手紙がいつもの返信分でした。
「ぜひ!会いたい!!」という気持ちを胸に、懸命に通行者に声を掛けました。 のち、日本語が分かる職員が声を掛けてくれました。やっと、ラジオでしか耳に出来なかった、北京放送局に通行が許可され、憧れの日本語部に入れました。「心臓ドキドキ・感動で心が動き・涙が出るほどの嬉しさ...。」日本語部お便り返信組長の李健一さんや入局間もない薛移さん。アナウンス部の林涛さん、林華さん。曙光さんにも会えました。
北京から電波で架け橋をラジオで繋ぐ声々が目の前に存在します。この、喜びは一生忘れられない人生の、生涯の1シーンでした。のち、交流は北京放送から始まり、訪中時には日本語部に、常連さんのように訪問しては、スタッフの皆さんと交流を図りました。もし、これが無かったら...。警備員の言う通り帰ってしまったら、今どうしていたか。
広大な中国。中国の旅は各都市、沢山出来ますが、私は北京を中心に人民と心の交流の旅を楽しんでいます。12年以上前ですが、お便り返信組の薛移さんが東京に留学した時、好く居酒屋に飲みに行きました。日本での生活、情報交換や家族の話を聞き、真面目な薛移さんの人柄を知りました。私は、その時、生涯、北京放送に接して、未来を歩む国際局のリスナーの一人として、お手伝いをしようと、決めました。のち、幼稚園時代の娘さんや奥さんにもお会いし、一般の旅行客と違う、中国庶民と心の交流が始まりました。現在も図り続けています。日本人も中国人も、持つ心は同じです。
「合計3,200ccの友好」
私は、日本で献血をしています。健康だから貢献出来ています。私の健康を病気で悩む方へ、お分けしています。今月で290回を数えます。中国人民の方々にも気持ちは同じです。合計3,200cc私の元気をお分けしています。訪中する度、日程に「献血日」を含め、王府井・西単で待機している献血バスでしています。
献血をしている中国人との触れ合いも楽しいです。最近は反日感情の大学生が親指で気持ちを表すサインが気になりますが、友好を表す私の片言な中国語で理解をしてくれます。中には日本語で話しかける大学生が居て、質問をされ、友好を常に心得ています。これからも、3,200ccとは言わず、健康な限り継続していきます。
「これからの提案&コミュニケーションの時代」時代は変わり、急速にメディアの変化も感じます。海外放送は電波の性質を利用して短波放送が主流でしたが、これからは、世界を繋ぐインターネットの充実が急がられます。現在、北京放送はインターネットサービスをしていますが、音声の他に映像の配信も必要かと思います。現在はBB(ブロード.バンド)が発達し、光ケーブルで音声は高音質・映像も高画質な時代です。
日に日に変わり行くIT事情も、放送局として、新鮮な情報を伝えるサービスも必要かと思うのです。新しい聴取者をインターネットで獲得し「中国情報=中国国際放送」を合言葉にアクセス情報を一般化させることが必要かと思います。
番組も一部の番組から「DJ」ディスクジョッキーから「VJ」ビデオジョッキー化にし、ネットコミュニケーション化を提案します。いかがでしょうか...。私自身も、お手伝いできる事はしたいと思っています。
「沢山あるけれど...」33年間は、この作文内では、表現しきれませんね...。沢山書きたいですが、限度もありますね...。思い出がたくさんあります。現在、私は、本業の眼鏡・コンタクトレンズ店・眼科視力測定以外にボランティアで、地域密着型のCATVの番組制作を5年。コミュニティーミニFM統括を18年行っています。北京放送の告知や番組交換も積極的に行っています。共にIT時代を乗り切れる今をと思う昨今です。
今後の中国国際放送の発展とスタッフ・関係者皆様のご健康を心からお祈り申し上げます。 出来たら開局記念時に訪中できたら...と思う所存です...。
「ありがとうございます」
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