二里頭遺跡 ?伝説の夏王朝か?
二里頭(にりとう)遺跡は、偃師(えんし)市の西南約9kmに位置する二里頭村の南に展開している。その地は洛陽市の東方約25km、まさに洛陽盆地の中央に位置する。二里頭遺跡は周囲より数メートル高い微高地にあり、現在では洛水(らくすい)が村のすぐ北側を、伊水(いすい)が南約4kmのところを流れている。かつては洛水と伊水は二里頭の西で合流し二里頭の南を流れていた。二里頭遺跡の南側では旧河道の痕跡が確認されている。二里頭遺跡の範囲は東西(最長)2400m、南北(最長)1900m、総面積は約300万平方メートル、二里頭村を中心とする広大なハート型の区域である。最近では洛水北岸の古城村(こじょうそん)までを視野に入れた調査がなされており、その区域はさらに拡大する可能性もある。遺跡の中心は、宮殿址の集中する二里頭村(にりとうそん)の南から四角楼村(しかくろうそん)にかけての区域で、その面積は100万平方メートルである。
二里頭村の周囲では古い形の陶器が採集されていたことからこの地が注目され、1959年より調査が開始された。以降、中国社会科学院考古研究所二里頭工作隊が継続的に調査を行っている。夏(か)王朝は商(しょう、殷(いん)ともいう)王朝の前に存在したとされるものの、未だその存在が確認されていない幻の王朝である。二里頭遺跡の文化堆積は夏王朝の末期頃にあたるとされ、夏王桀(けつ)の都斟鄩(しんじん)、あるいは商王湯(とう)の都城西亳(せいはく)など諸説が議論される中国古代史の上で最も重要な遺跡である。現在、文化層(地下の遺物包含層をいう。二里頭遺跡では下層から第1期、第2期、第3期、第4期に分けられる)の堆積により、第一期を夏文化、第二期を夏商移行期の文化、第三期・第四期を商前期・中期の文化に区分している。C14測定ではB.C1900~B.C1500頃に相当する。発掘調査の結果、第二期に形態の整った大型宮殿建築が、第三期には宮城が出現しており、第四期には顕著な衰落現象がみられる。夏王朝を考える意味では第二期、第三期は重要であるが、夏商移行期を論じる第四期が研究史上最も注目される時期で、偃師商城との関係が議論されている。
第一期から第四期にいたる指標は陶器であるが、第一期と第二期には比較的共通性が多く、河南龍山(かなんりゅうざん)文化の影響を依然留めている。また、第三期と第四期には比較的共通性が多い。現在、一期と二期を前期、三期と四期を後期と分けているが、両者の間には文化的に明確な変化が認められる。青銅礼器としては爵(しゃく)や斝(か)が注目される。遺跡区域の南部では青銅器の製作工房址も確認されている。
宮殿区の西南と東面には、巨大な宮殿、一号宮殿と二号宮殿がある。両宮殿のC14測定値はB.C1700前後を指す。それぞれの宮殿址の南側では宮殿址が重層的に確認されている。
一号宮殿遺址は宮殿区域の中央西南よりに位置し、東西108m、南北100m、東面に張り出しをもつ回廊によって囲まれた構造をもつ。南には3つの門道をもつ大門があり、内に約5000平方メートルの面積をもつ中庭を有する。中庭の中央北寄りには東西36m、南北25mの版築基壇(はんちくきだん)の上に東西30m、南北11mの宮殿遺構が確認された。奥行き三間、二層式寄棟(よせむね)造りの宮殿であることが確認されている。宮殿遺構の西北隅では10基の墓葬(ぼそう)が確認されており、その被葬者は両手を縛られている。
二号宮殿遺址は、宮殿区の東側に位置し、東西58m、南北73mの長方形を呈し、回廊が周り、中庭の中央北寄りでは東西32m、南北12mの宮殿遺構が確認されている。陶製の排水管も完備されている。宮殿址の背後には規模の大きな墓葬がある。
二里頭遺跡は城壁が見当たらないことが問題とされてきたが、近年、宮殿区を取り巻く城壁が確認された。とはいえ、その城壁の幅は2m前後しかなく、宮殿の垣ともいえる程度の規模であり、二里頭遺跡の東北に位置する偃師商城(えんししょうじょう)城壁の周約6km、幅約18mというものに比べると、これを城壁と認めるかという点で問題が残る。また、東部宮殿区の南側の墓葬からは数年前にトルコ石で龍を象った杖が出土している。以前トルコ石がはめ込まれた長径17cmの楕円形青銅牌飾(はいしょく)も出土しており、トルコ石と王権との関係が注目される遺物である。
二里頭遺跡の周囲には農地が広がる。地図を持たずに現地に立つと中国史上重要な遺跡がそこにあるのかと考えてしまうほど農地が一面に広がっている。その光景を眺めつつ4000年前の中国王朝草創期の有様を思い浮かべるのもまた一興である。遺跡区域の西南に博物館が建てられる予定である。
(中国洛陽外国語学院、特聘教授 塩沢 裕仁・考古学)
写真提供(中国社会科学院二里頭考古隊)
|