洛陽遺跡衛星写真
古来中国は方形の九つの州に分けられていたが、その中央に位置し13にも及ぶ王朝が都を置いたのが洛陽である。地形的にみても洛陽より西側は山岳地形であり、洛陽より東側は海まで平原が続いている。この両極端の地形の接点にあって、周囲を山で囲まれた盆地に営まれたのが洛陽である。北にはボウ山と呼ばれる丘陵が面々と続き、これが黄河の氾濫を防いでいる。東より南、そして西にかけては、中岳と称される嵩山(すうざん)山系が展開し、盆地の中央を洛河(らくが)、伊河(いが)が流れる。両河川は盆地東部で合流した後、東北に流れて黄河に注ぎ込む。盆地内の海抜は120ー190m、丘陵部の平均海抜は300m、山岳部の平均海抜は800m、したがってその比高差は非常に大きく清らかな水が盆地を潤しているのである。黄河文明はまさにこの地で生まれたといっても過言ではないが、黄河文明という文言からは黄色い大地というイメージが強い。しかし、洛陽についていうならば、日本の盆地と同様、緑が多く、河川には川原石が転がっているのであり、水質もよく地下水も豊富である。それ故に、中国4000年王朝の歴史がこの地において生まれたのである。
ところで、漢代には洛陽盆地を取り囲むように関所(せきしょ)が置かれた。管理機構の都尉治(といち)を除いて全部で八つ、洛陽八関(らくようはっかん)と称する。実はこの広大な盆地に出入りする道はこの関所を通過する八本しかないのである。まさに盆地全体が天然の要塞でもある。八関のうち函谷(かんこく)、カン轅(かんえん)、大谷(たいこく)の三関は遺跡が残存し、伊闕(いけつ)には龍門石窟(りゅうもんせっくつ)が開鑿(かいさく)されている。
中国が統一帝国を建設し領域拡張へと動き出す秦(しん)、前漢(ぜんかん)、唐(とう)では都は長安(ちょうあん)に置かれ、また唐代末より経済が発展し平野部の運河の重要性がますとともに再び洛陽に都が置かれることはなったが、4000年に渡る中国王朝史の4分の3、すなわち古代3000年の歴史は洛陽をめぐって展開されたのである。しかしながら、省都でもなく、国際空港もない洛陽の文化財保護は西安に比べ立ち遅れた観があり、またこれまで対外的にもあまり紹介されてはこなかった。とはいえ、ここ数年来の経済成長は洛陽の経済をも刺激し、高速道路のターミナルも完成、経済特区として注目を浴びるようになった。これにより開発も著しく、都市開発と文化財保護とを如何に両立させるかが洛陽の課題となっている。現在、盆地全体に展開する主要な五つの遺跡区を広域保護遺産に指定する方策が模索されている。その五つとは、夏(か)王朝の都城二里頭(にりとう)、殷(いん)王朝の都城偃師商城(えんししょうじょう)、後漢・三国・北魏の漢魏洛陽城(かんぎらくようじょう)、市内にある東周王城(とうしゅうおうじょう)・隋唐洛陽城(ずいとうらくようじょう)、そしてボウ山に展開するボウ山古墳群(ぼうざんこふんぐん)である。
北魏永寧寺塔跡
では、以下に洛陽盆地に展開する重要遺跡について簡単に紹介してみたいと思う。
まず、中国王朝史の上で最も早期かつ重要な遺跡と考えられているのが、二里頭(にりとう)遺跡である。洛陽市より東に約20キロ、洛河(らくが)の南岸、二里頭(にりとう)村一帯に展開している。この遺跡には宮殿や墓葬(ぼそう)ばかりでなく、最近では城壁などの都城としての条件を備える遺構(いこう)が発見され、伝説の夏(か)王朝の存在を証明するものとして注目を集めている。遺跡周辺は一面の畑地であるが、一般開放に向け現在遺跡の整備と博物館の建設が進められている。
二里頭(にりとう)遺跡の東北6キロのところには、東西1200m、南北1700m、壁幅18mという巨大な城壁をもつ偃師商城(えんししょうじょう)がある。宮殿、街路、上下水道など都市環境が整備されている遺跡である。二里頭(にりとう)との関係も議論されているが、商(しょう)すなわち殷(いん)王朝を建てた湯王(とうおう)の都であると考えられている。宮殿址のみ復元されており、参観が可能である。
二里頭(にりとう)遺跡の西北10キロのところには漢魏洛陽城(かんぎらくようじょう)がある。三国志の舞台はまさにここである。周囲15キロ、壁幅25mの城壁の内、洛河(らくが)の河道(かどう)下にある南城壁を除き4分の3は地表面で目視できる。特に北、東城壁の保存状態はよく、馬面(ばめん)という城壁外部に突出した構造も残存している。また、城内には九層の巨大木塔をもつ北魏(ほくぎ)期の永寧寺(えいねいじ)遺址が、城外では中国で最初の寺院といわれる白馬寺(はくばじ)が西に、天文台であった霊台(れいだい)遺址が南に残存している。近々、城内中央部にある宮殿址が発掘されるという。
漢魏洛陽城(かんぎらくようじょう)の北、段丘の上に展開するのがボウ山古墳群(ぼうざんこふんぐん)である。漢魏洛陽城に近いところが後漢(ごかん)、東北が魏晋(ぎしん)、西北が北魏(ほくぎ)の墓陵区(ぼりょうく)である。見事といえるほど沢山の墳丘が残存しているが、近年相当削平されたとのことである。伊河(いが)を越えて南側の台地上にも巨大な墳丘をもつ墓陵区(ぼりょうく)が展開しているがこちらは未調査である。後漢(ごかん)の帝陵(南陵なんりょう)と考えられる。
洛陽市の直下には東周(とうしゅう)の都と隋唐(ずいとう)の都が眠っている。洛陽市では市の中枢部を洛河の南へ移転しているが、隋唐都城(ずいとうとじょう)遺跡を避けるようにプランニングしており、南北市街地の中央に公園として隋唐洛陽城の所在が確認できるようになる。また、市内中央の王城広場(おうじょうひろば)はその地下全面に東周の王墓(おうぼ)と車馬坑(しゃばこう)が埋まっていることから、現在一部は天子駕六(てんしがろく)博物館として、それ以外の区域は公園として整備が進められている。市の中心定鼎路(ていていろ)には隋唐宮城(ずいとうきゅうじょう)の正門である応天門(おうてんもん)遺址が、東部には天平甍(てんぴょうのいらか)で有名な栄睿(えいえい)・普照(ふしょう)の滞在した大福先寺(だいふくせんじ)が、南部には詩聖白楽天(はくらくてん)の旧居遺址がある。市内老城区(ろうじょうく)の北および東北では、回洛倉(かいらくそう)と含嘉倉(がんかそう)が発見されている。一つの倉穴(そうけつ)は逆円錐形で、口径10mから16m、深さ7mから9m、回洛(かいらく)、含嘉(がんか)とも300基弱があり、それぞれに百万の人口が1年半食することのできる食料備蓄コンビナートである。戦乱の際には当然ここが争奪の舞台となっている。市の周辺には上清宮(じょうせいきゅう)や西苑(せいえん)などの隋唐離宮(ずいとうりきゅう)址も残存している。
以上簡単に洛陽の中心的な遺跡について紹介した。これ以外にも新石器時代の指標となる王湾(おうわん)、孫旗屯(そんきとん)、ザ李(ざり)など枚挙に暇がない。これらの遺跡をどのように保護すべきかが議論されているが、洛陽の考古研究が進む中で、3000年に渡る中国古代王朝史の全貌が少しずつ我々の眼前に現れてきている。
中国洛陽外国語学院 特聘教授 塩沢 裕仁(考古学者・在洛陽・写真も)より
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