いつか自分の名前と同じの町へ行ってみようと、30年前の10代の頃から夢見てきました。その町は、故郷の東北部遼寧省の「丹東」から南へ凡そ2600キロ離れた江蘇省の「丹陽」という町です。この夢は、今年8月6日に、やっと実現しました。
「丹陽」という町があることを知ったのは、小学校3年生のある日、学校を終えて家に帰る途中、百貨店に寄り道した時、ガラス張りの(1)カウンターに並んでいた「丹陽産」という(2)包丁を見たからです。家に帰って家族に教えたら、みんな「ええっ」とびっくりしました。私に「丹陽」という名前をつけたのは、父が丹東で仕事をしていることから「丹」という字をとったこと、当時、毛沢東主席のことを喩えて言われた「太陽」という言葉をよく耳にしていたこと、軍人をたたえる歌・「私たちの軍隊は太陽のよう」がよく歌われていたことなどから「陽」という字をつけたのだと、父母に言われました。そんなことから、いつかこの「丹陽」へ行って見ようと思うようになりました。
大学に入ってからは、友人などから、時には興奮した目つきで、時には親しげな口調で、「丹陽生まれですね。私も江蘇省の出身ですよ」と声がかけられるようになりました。そのとき、「丹陽はどんな所?」と聞いたら、「小さな田舎町ですよ。経済が立ち遅れていて、結構貧しいところですよ」などと、返事がありました。
大学卒業後、就職、留学、帰国、放送局への再就職などいろいろなことを経験しながら、30年経ちました。今年4月、(3)通訳として局の専門家取材団と共に、安徽省へ取材に行ったら、また、地元の記者から同じことを聞かれました。地元の記者は私の答えを聞くと、「不思議なこと!丹陽市はすぐ近くにあるから、行ってみたら」と、強く勧められました。「一生に一度は必ず行っておきたいところですね」と答えました。というのは、多分定年後になるだろうと思っていたからです。そして、今年の8月、南京で開かれる中国語教育についての国際会議に参加する機会に恵まれました。「丹陽」は、南京から列車で東へ1時間半ぐらい行った所にあり、すぐ目の前に近づいてきました。
会議が終わった翌日、早速「丹陽」に向かいました。揚州を過ぎると、(4)稲田が30分続くと、「丹陽につきました」と車内アナウンスが流されました。なんとなく、久しぶりの友人に会いにいく感じがし、ぞくぞくするような気分になりました。
小さな(5)改札口を出てみると、駅前の広場が小さく、町を貫く道路も2車線だけの町でした。でも、眼鏡の店がずらりと並んでいるのが印象的でした。町角の新聞ボックスで「丹陽日報」を買ってから、40代の奥さんと少しおしゃべりをしました。丹陽市については、唐の時代から丹陽という町名になったこと、1987年に県から市に昇格し、今はアジアでも有数の眼鏡の(6)卸売りの町になっていること。(7)靴の製造業も確実に進んでいる」ことなどが分かりました。
道行く人の少ない道路を歩き、揚子江・長江までつながる運河を砂を積んでゆっくりと進んでいる船を見ました。また、南京行きのバスに載る前に、記念写真を取るため、(8)ターミナルの近くの店の女の子にシャッターを押してほしいと頼んだら、快く引き受けてくれました。楽しかったです。30年間抱えた夢の世界を、1時間ぐらいで通り過ぎましたが、大満足でした。
今は、北京に戻っていますが、その楽しさはまだ響いているようです。そして、ごくささやかな夢でも、それがかなう日はきっと訪れるので、諦めることはないと考えるようになりました。これからも、夢を持って、潤いのある日々を送っていきたいと思っています。
|