中国の農業専門家徐一戎さんは、気温の低い中国北方地区の水稲の栽培についての研究を進め、北方地域の水稲の年間収穫高を数百億キロを増やしました。このため、「寒地水稲の父」と呼ばれています。しかし、徐さんは自分が専門家ではなく、単なる水稲を栽培する人だと言っています。
「農家と比べれば、私は水稲を栽培する時間が長く、1951年から始めたもので、ただ専門知識が少し多いだけのだ」
今年83歳近くの徐さんは髪が真っ白ですが、元気一杯で、ずっと水稲の栽培を研究してきました。徐さんがよく行くところは田圃で、よく口にするのは水稲のことです。水稲の研究は徐さんの生活体験と切り離せないのです。1924年、徐さんは東北遼寧省の北寧市に生まれ、学生時代、中国が日本に侵略され、生活は非常に苦しく、お米は贅沢なものでした。徐さんは過去を振りながら次のように話しています。
「日本侵略軍は中国人がお米を食べることを絶対に許さなかった。お米は、お祭りの時しか食べられないのだ」
その時から、中国の人々がお米を食べられるようにすることは徐さんの願いとなりました。東北地区は厳しい寒さの地帯にあり、水稲の収穫量は低いのです。新中国成立後、まもなく、大学を卒業した徐さんは東北の黒竜江省の農場で、水稲栽培の研究に努めました。しかし、歴史的な原因によって、研究は中断され、徐さんは貧しい農村に住み着き水稲の研究を続けました。徐さんの指導の下で、農家の水稲の収穫量は2倍増えました。人々の目の中に、徐さんは非常に能力のある人と写ります。人々に尊敬されています。徐さんが病気の時、人々は果物や卵を持って、見舞いに行きます。当時は貧しい時代で、卵なんか、普段は食べられないものでした。村には医者はいないので、村長さんはよそへ行って、徐さんのために医者を呼んできました。徐さんは感動して、研究に全力をあげ、村の人々を一日も早く豊かにさせることを決心しました。
10年が経ちました。徐さんは都市の水稲研究所に戻りました。このとき徐さんはもう60歳で、定年退職の年齢になりました。しかし、研究は未だ実っていないのでした。これについて徐さんは
「私は、水稲との間に、切っても切れない関係をもった。1日、水稲と会わないと何か足りない感じだ」と話しています。徐さんは昼間は実験田で過ごし、夜は家でデータを整理し、こうして、十数年が立ち、とうとう寒地での収穫高の高い水稲の研究に成功しました。徐さんはこの技術をいち早く地元の農家に教えました。年毎に豊かになる農民の姿を誰よりも喜んでいるのは徐さんです。
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