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「忠実猛将」の関雲長

2009-02-23 09:45:02     cri    

 皆に知られている赤壁の戦いでは、「華容道」というところまで逃げてきた曹操の命乞いに対し、受けた恩を忘れず関羽はそれを許していました。全部の赤壁の戦いに関する物語を加えて、京劇では『群(英会)・借(東風)・華(容道)』というとても有名な演目があるのです。

  

 赤壁の戦いの後、劉備が益州に入ると、関羽は荊州の守備を任されました。関羽の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信がよく行き渡っていたようでした。しかし、関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなります。そして、孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り(「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『三国志演義』などに見られますが、正史には見られません )、孫権を大変怒らせました。そのとき、曹操の部下の司馬懿と蒋済は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって、同盟を結ぶことを提案し、曹操は孫権と同盟を結びました。これで逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうこととなりました。さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせました。「麦城」というところで、退路を断たれた関羽と息子の関平は、呂蒙、陸遜により捕らえられ孫権により処刑されました。『三国志演義』などの民間伝説では、関羽は首を切られていた後も体が倒れず、そのまま立って死んだそうです。

 京劇では、乱世を安定するための初めの一歩から亡くなるまで、関羽を主役とした演目はあよそ50ほどがあり、もっとも多いと見られています。(楊)


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