仏教対応―中国の北朝と南朝
思えば中華民族とは数千年の歴史において、周辺民族をよく育てたものです。中華思想からいえば当然というでしょうが、周辺民族のなかには不満も反感もあったはずだし、歴代中国政権の出費は少なくはなかったでしょう。北方民族は絶えず中国の辺境を侵しました。8世紀の詩人杜甫の詩は辺境に送られた兵の苦衷を描いています。
仏教が北回り南回りで伝播した時に、南朝は直ちに帰依するということにはならなかったようです。教養として受け取るには儒学、孔孟老子の哲学が身に着き過ぎていたといえます。これに対し、洛陽の白馬寺に見られるようにいち早く仏教を採り入れたのは北狄との対決に追われる漢帝国でした。仏教の平和・平等・博愛の精神を思想とすることに誰しも異議はないと信じました。数世紀を経て北方系の北魏は道仏の揺れのなかで仏教王国を樹立、洛陽には東西南北の夷蕃・四夷のための学校、寮を建てました。先に記した扶桑館が東夷のための学校です。
北朝は洛陽の東約50キロの崇山・麓の少林寺を公認しました。南印度の達磨大師は南回りで梁に入り、武帝に会ってから北上して洛陽東方の少林寺に入ったといいます。禅の修業9年、その座禅は有名です。梁の僧は東の列島へ布教に行き、はるばる東北・会津にまで足跡を残しました。ほかに茨城・千葉に古寺の縁起に梁僧の名が見られます。
信仰の力は想像以上で瞬く間に地球を回ります。現代、退化し、怠け者の都会人を嘲笑うかのように只管、信仰力は突出するようです。現代アメリカのように金に眼が眩むまではということでしょうか。
列島では仏教は藤原政権の巧みな演出により、僧の序列化が行われ、政僧、怪僧、政治屋の僧、怪しげな僧が蠢く時代に入ります。行基ら純粋な僧は平城京から弾き出されたようです。中国から渡航5回、失明のあげくに平城京に入った鑑真和尚は仏教界から疎んじられたといわれますが、その精神の高さは永久に光り輝やいています。
唐の周辺・新興諸国は大唐帝国の秩序のなかに組み入れられながら、微妙にそれぞれの自立的発展の道を歩みます。なかでも、8世紀初めの藤原不比等は異常な反新羅感情を見せ、対抗意識を持ちます。いわば 仮想敵国から敵国視です。新日本の権力者の心情はどこか渤海国に通ずるものがあったのかもしれません。王のおくり名が似た発想です。
なお、旧唐書では日本国と新羅の扱いに天地の差があり、新羅伝は詳細なもので、唐・新羅が百済・倭国連合に勝利した時の真徳女王の頌歌・祝い歌を掲載しているほどです。
遣唐使=史上無比の定期・国際大研修団
7世紀以降、9世紀にかけて東の倭国・日本国が定期的に長途の船旅による、大代表団を派遣した史実は世界史上、特筆に値する事実として記憶されるべきです。約220年の間に20回近い(異同がある)列島平城京―長安の往復です。
平城京政権になってから、大船4艘、各150人の乗船者、計600人前後の要員は使者、補助、管理、保守維持など水手をふくむ数です。当然、遭難率が高いから、往く側の苦衷が万葉歌に見られます。日本側は大唐の政治、経済、文化、医薬術、工芸、技術、農学など、すべてを積極的に吸収しようとしました。
平城京時代の85年間、送使2回を除き、8回ののうち停止3回、実施5回で全4艘がどうにか無事に帰国できたのは半数でした。周知のように鑑真和尚の乗船した船は遠くベトナムや琉球にまで 漂着したという苦難の航路でした。
702年、30年ぶりの遣唐使は粟田真人以下、品があって勉強家だと褒められています。則天武后も謁見していますが、一方で倭国から日本国へ、国の誕生についてしつこく聞かれたようです。旧唐書は「実を以て応えず」と強い不満を書いています。恐らく藤原氏の箝口令が敷かれていたのでしょう。謎は大きいのです。
8世紀の遣唐使には玄宗の恩愛を受け、囲碁の対局を仕まつった玄昉や、長安に滞留し地方長官に赴任した阿倍仲麻呂の例も見られ、李白の詩にも登場する人物がおり、今世紀には井真成の墓誌も発見されました。
このほか、中国側に愛され、日本側が熱意をもって交流するのが四国の空海です。現代、西安の青龍寺には記念碑が立ち、旧城内の阿倍仲麻呂の碑と双璧です。 このように、日中関係は不滅の友好の積み重ねが燦然たる光芒を放っています。
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