20131015节目第二段
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これまで2週続けてお送りしてきた【いき一郎さんの秋の古代史教室】。今週が最終回です。
これまでの教室では、テレビ局でジャーナリストのお仕事をしていた、いきさんが何故、古代史研究を始めたか、「徐福東渡」を通してみる古代日本列島と中国大陸や朝鮮半島との人的、文化的つながり、または日本各地に見える巨大な古墳に含まれた謎、邪馬台国の所在地などなど、盛りだくさんのヒントをめぐってお話を伺ってきました。
今週のインタビューは前半では、日本の別称にもなっている「扶桑国」をめぐる論争を取り上げます。中国の歴史書『梁書』(629年)に掲載されていた僧慧深の証言が虚偽だったという説もありますが、これに対して、1970年代末からコツコツと扶桑国に関する研究を続けてきた、いきさんの見方は?
後半は、話を古代から今の両国関係にぐっと引き寄せてみました。「仲良くして、切磋琢磨し互いに向上していく」ことに両国関係の理想像を描くいきさん。古代史研究を通して見えた中日関係のいまと今後は?
ぜひお聞きください。(Yan)
壱岐一郎(いき・いちろう)さん
1931年東京都生まれ。東北大学法学部卒業後、九州朝日放送で30年勤務。その後、北京放送勤務を経て東海大学、沖縄大学で教べんをとる。日本記者クラブ会員。
主な著書
『北京放送365日』河合出版(1991)
『国が共犯!日中米4大事件+3・11』かもがわ出版
『中国正史の古代日本記録』(葦書房)
『新説 日中古代交流を探る』(葦書房)
『扶桑国は関西にあった』(葦書房)(1995)
『徐福集団渡来と古代日本』(三一書房)(1996)
『藤原不比等』(三一書房)(1997)
『継体天皇を疑う』かもがわ出版
『映像文化論・沖縄発』(2000)
『ゼロからの古代史事典』主編(ミネルヴァ書房)(2012)
映像制作ードラマ3本、ドキュメンタリー5本、NHK・BSテレビ生紀行1本、ほか。
いき一郎さんの
【中国史料による意外・日本古代史】抜粋その③
飛鳥宮での建国準備
670年代に、唐の遠隔操作で新羅が新生ヤマトの指導・サポートをしたと言われます。朝鮮史家・井上秀雄氏によれば、この政権の「守・介・掾・目」の4つの地方官は新羅によるといいます。ほか「九州・五京制」も参考にしたようです。
このほか、新羅使がひんぱんに奈良の飛鳥へきており、日本書紀によれば、大王とその妻の時代、后(持統)は山道を飛鳥から吉野に往復します。ただ神がかりのためではないでしょう。
新羅使が吉野に常駐していた可能性があります。飛鳥大王は天皇と呼ばれるようになります。唐では武則天が夫・高宗を天皇、自分を天后と呼ばせたからです。
このほか、大地震に襲われた時代、薬師信仰や冠位を48階という多さで振りまきます。
「大君は神にしませば・・・」という万葉歌が残っていますが、大王の死後、后はすぐ即位せず、息子の草壁皇子は他界します。后は690年に即位したことになっています。万葉歌づくりが盛んになっていきます。藤原宮への遷都が694年です。藤原不比等が判官10人あまりとともに日本書紀に現れるのもこのころで30歳すぎです。
690年ごろ、日本列島には、大宰府、難波宮があり、藤原宮は難波宮を模して造営されたといいます。同時に、この時期までに、北部九州から寺院が移築されたという説があります。私は先学の説に、九州年号白鳳がヤマトで仏教美術の代名詞になっている原因を考えました。寺院の移築は1990年代から説かれていますが、私は寺院の福岡、大分からの東への移築は、数十人規模ではなく、千人単位と見ました。だから白鳳年号が残り、人に親しまれてきたのだとしました(『継体天皇を疑う』かもがわ出版 2011年)。
新日本国は複雑な民族を抱えていました。旧来の中国系―徐福集団系、3世紀の呉系、6世紀来の北魏系、それに高句麗、百済系などです。(参考・新撰姓氏録)。
北魏亡命者―仏教徒・テクノクラート
列島関西と北部九州に色濃い跡を残している北魏の亡命・移住者とその政府への大きな影響力について語る必要があります。530年代に北魏は東魏、西魏に分裂し、約20年後、北周、北斉が誕生します。北斉は百済、新羅を冊封し、北周は高句麗を冊封します。南朝は陳の時代ですが、民衆の支持はありません。腐敗していたからです。
南北の政権とも短命で、581年に起こった隋が8年後、統一を果たします。この6世紀前半の北魏滅亡時、皇族、官僚、仏教関係者は大挙して東方へ亡命移住しました。その中枢は仏教+技術官僚だったといえます。北魏は四夷のために館を建て、東夷には扶桑館を置くなど仏教王国でした。今日、電脳画像CGで再現された往時の洛陽の姿を知ることができます。
列島へ渡った北魏人は100年後、難波京を知り、その50年後、藤原京建設に参画しました。
藤原京は北魏洛陽城を模したといわれ、仏堂、仏像は鞍作一族が参与したでしょう。北魏洛陽城は中国最初の仏寺白馬寺の東にあります。現行政区画でかなりの地域が東、偃師市に属しますが、南は洛水、伊水に至る広い地域です。7世紀の難波―飛鳥政権ではとても壮大な都城の建設は不可能でしたが、藤原京は北部の内裏、天皇の住居・仕事する地区が南より低く、不都合が起きたので15年で北の平城京建設に向かいます。誕生間もない古代・小国としては致命的な出費だったに違いありません だが、策士・藤原不比等は強引に新都建設に向かわせます。この経過は哲学者梅原猛氏が1970年代から多くの著書で告発したところです。遷都により、藤原氏は氏神、氏寺をよりよい位置に獲得し、難波の港からの通路に当たる法隆寺の存在に効果あらしめたといいます。法隆寺は「聖徳太子」創建とし、庶民の尊崇を集めるのですが、藤原氏こそ聖徳太子補佐の第一人者だという宣伝を利かせる効果があるのです。
710年、平城京へ遷都した頃、藤原氏は政権の実権を手にしていました。律令制定10年、遣唐使派遣8年、万葉歌も新国語運動として定着していました。女性天皇(元明)は天智の娘、新しい都への不安を歌に残したが、姉に励まされています。
平城京は北の陵墓の一部を削って造営された120ヘクタールの大都で、近隣の山林から木材を集めたので禿山になったといわれ、役夫数千がこき使われています。初期の役人数が6千といわれ、家族をふくめ数万に達していました。参考までに西の大宰府政庁は8世紀に約2万の都城だといわれ、平城京は20万に達したといいます。
奈良の日本語読みは朝鮮語ですが、漢字名称を平城としたところに新政権の深層を覗わせます。いくつかの解釈が可能ですが、正史日本紀編修を終えるころ、新羅との大唐の前での序列争い、不比等の反新羅・ヒステリー褐斯底里の激化を迎えます。
百済亡命者・移民
7世紀後半、特に661年からの朝鮮半島激動期に百済地方の官僚・住民は大挙して列島へと移動します。
日本紀・天智紀はそのほとんどが百済系の名で埋められていると言っても過言ではないほどです。天智―近江大王の問題を除いても、百済の高官、学芸人・将軍が列島へ到来しました。近江政権の幹部のうち、少なくとも50名は百済の冠位を持った有力官人でした。近江は東国の西の境で、その移民を記していますが、さらに現代に伝えられる名刹、百済寺・金剛輪寺・西明寺が湖東三山として人びとを集めてきました。
近江(現滋賀県)に定着した百済人の多くは後に近江商人として日本内外に名を売ったといわれています。近江商人発生説のなかに渡来系説が含まれますが、東海道・中仙道(北陸道)の十字路に位置することや琵琶湖の舟運の利がはいるでしょう。
しかも渡来系を通して内外の情報が入手しやすいわけです。江戸時代に「秀吉侵略者」の蛮行を平和交流に転換させた雨森芳州は琵琶湖の北、湖北の出ですが、納得できるでしょう。
さて、百済移民は東国もさらに東に送られました。武蔵国に2千人などの大量です。 ここで考えられることは、6世紀の梁書が「文身国の東5千余里」に大漢国がある」としたことで、「武器なく、戦争せず、風俗は文身国と同じだが言語異なる」とした事実です。百済人や高句麗人にとっては列島中央部の関西ヤマトなどより風土が似ていて、未開地が多かったことでしょう。言語・習慣が異なるのは万葉歌・防人歌で明らかになっています。
8世紀末の続日本紀で地方官の任命を見ると、現関東・東北の国守・知事クラスに多くの渡来系王族の名を読むことができます。また、現存神社には高麗神社、コウライ・コマほか、その名残りを留める少なからぬ数の神社仏閣があります。もともと、先史時代には北の海を渡った高句麗系住民が能登半島から信越を経由する通路があったと見られ、積石塚墳墓が早くから甲信越にあったといいます。古代日本語は古高句麗語から生まれたという説があります。また、能登半島には20世紀まで30を越える漂流伝説があったといい、北ツ海を南下しただろう伝説を貴重としたいのです。朝鮮半島にくらべれば地震を除き列島中東部はまだしのぎ易い風土だったから渡海したいと考えたのでしょう。
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