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日本の書道家柳田泰山、「60歳、我が書道の新起点」

2010-11-05 14:14:17     cri    

 2010年5月、温家宝首相は日本を訪問した時、中日両国の有名な文化界人士と座談会を開き、日本の柳田家の四代目―柳田泰山氏と会いました。

 柳田泰山氏は、「中国は先輩のような国だから、中国からいろいろ学ばなければならないと父親がよく言っていました。その父が亡くなる時、『懸命に書道を学び、中日友好に自分の力を捧げろ』と私を励ましました。その言葉は、一生忘れられません」と温家宝首相に話しました。

 温首相は、「文化は魂の交流であり、文字の交流も書道の交流も思想の交流です。これは平和の理念を伝え、中日の友好交流を促進しているでしょう」と答えました。これがきっかけで、柳田泰山北京書道展が11月3日、北京美術館で開催されました。


柳田泰山北京書道展

 江戸時代の末ごろから明治時代の中期まで、柳田泰山氏の曾祖父は儒学家として日本で活躍しました。彼は自分が創立した塾の中で、中国の儒学を教えました。

 その後、泰山氏の祖父である柳田泰麓氏は、父親の事業を継いで、引き続き儒学を教えました。塾の発展と授業の数が増えていくに従って、泰麓氏は最も重要な文献を文字にして、学生たちに配りました。こうして、ますます、文字の存在が大切になっていったのです。晩年柳田泰麓氏は教育家としてよりも書道家として有名になりました。柳田泰麓氏こそ書道一家の創始者と言えます。

 書道を芸術の最高点へと推進したのは柳田泰雲氏です。彼は泰麓氏の息子、泰山氏の父親です。泰雲氏は先代の事業を受け継ぎ、儒学を元にして、中国の老子・荘子の哲学を取り入れました。また、青年時代から、書道を通じて、中国の書道家と交流し、25歳の時、日本書道史上初の「文部大臣賞」を受賞しました。中日国交正常化以後、柳田泰雲氏は中日交流の活動に積極的に参加するようになり、中国の書道を研究して、日本に押し広げました。また、何度も中国で自身の書道展を開きました。泰雲氏が亡くなる直前に書いた「国泰民安」という文字も、中国山東省にある泰山の玉皇頂に刻まれでいます。

柳田泰山氏

 柳田泰雲氏の息子、柳田泰山氏は10歳から、何度も書道コンテストで「内閣総理大臣賞」を受賞しました。現在すでに60歳になった柳田泰山氏は子供時代のことについて、こう話しています。

 小さい時、私は父親の影響で、書道を始めました。その頃は生活も豊かで、オープンな時代でしたから、私は他の大勢の青年と同じように、独立した自分の生活を送りたかったのです。25歳の時、父親と人生について、まじめに相談した結果、私は寺に入り、修行を始めることにしました。これが私のの人生の転換期です。

 泰山氏は寺で一年四ヶ月間修行した際、このチャンスに集中的に書道を学びました。泰山氏は自分の父親に大変感謝しているそうです。それというのも寺の生活がなければ、自身の書道への決心もなかったからだ。

 1993年、43歳になった泰山氏は日本で泰書会を創建し、正式に書道教授の道を開きました。また、「100件の仏教経文の屏風を書き、100軒の寺に贈る」という目標も作り、十数年来、40軒以上の寺に自身の作品を送り続けてきました。中国西安市の青龍寺にも泰山氏の作品が寄贈されています。

 今回の書道展について泰山氏は、「二代目の柳田泰麓から計算すると、柳田家と中国の交流は80年間近くになります。父は1989年北京美術館で書道展を開いたことが有ったので、今回、自分もここで書道展が開けることはとても光栄です」と話しました。

  
柳田泰山北京書道展の作品

 また、「中国へ来るのはうれしいです。日本を離れれば、日本をもっとはっきり見ることができますし。また、中国人は昔の友情を大切にしていますね。父は中日友好に協力したことがあるので、大勢の人が私をよく助けてくれて、とても暖かく感じました。政治や経済に多くの熱情を注ぐと、道に迷う時もあります。しかし、芸術や文化だったら、いくら熱中しても、間違いはありません。極、普通の日本国民として、私は中日友好の発展を信じています。特に、こうした複雑で困難な状況の時は、もっとわれわれの努力が必要だと思います」と話ました。(取材:傅穎 オウギ 李陽)

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