私と北京放送
1948年(昭和23年)に生まれた私は、小学校に入った頃、日が暮れてからの楽しみは、もっぱらラジオでした。特に夜6時から7時までは、子供向けの番組が有り、おとぎ話や冒険ものに、毎夜心を、おどらせていました。当時は、まだ家庭では、テレビが見られない時代でした。
家にテレビが入ると、まだ子供だった私は、日が落ちるとテレビの前で、人形劇やアメリカで作られたホームドラマに、見入っていました。
そんな私も、中学生になると、またラジオに興味をいだくようになりました。それは、なぜラジオは、聞こえるのか? ラジオという機械は、どうやって音を出すのか? 「放送」という言葉の意味を、漠然と理解するようになりました。「中波放送」「短波放送」「FM放送」という概念を理解できるようになったのは、もう高校に入る頃のことだったと思います。
そして時代は、携帯ラジオの全盛期になっていました。「家族のラジオから、私のラジオ。」へと変化したのです。そんな時「こちら北京放送です」という声をはじめて聞きました。「短波放送」だから、選局のツマミをぐるぐる回してみても、聞こえてくるのは、わけの分からない外国語ばかり。それにもかかわらず、その短波放送は、日本語でしゃべっていたのです。「へぇ~、この放送は、北京から発信されているのだ。北京からは、日本語の放送も有るのだ。」高校生となっていた私は、即座に理解しました。たぶん生涯でいちばん多感な時期、高校生時代に私は「北京放送」と出会いました。
このことは、今ふりかえると、私の人生に大きな影響を与えました。大学生になると、第二外国語という科目を受けなければなりません。日本の大学では、2つの外国語学習を義務付けています。ひとつは、全員が学ぶ英語。もうひとつは、各学生が選択するドイツ語、フランス語などです。私が進学した大学は、幸運にも中国語を選択することができました。当時はまだ、日本と中国の国交が正常化される前でしたので、中国語を学ぶ学生も少数でした。もし、私が「北京放送」を聞いたことが無ければ、中国語を学ぼうなどとは、思わなかったでしょう。そんなことで、私も中国語という外国語がどういうものか、少し分かるようになりました。
日本と中国との国交が正常化したのは、1972年(昭和47年)。私が会社に入り、サラリーマンになった年でもあります。中国語とは、縁もゆかりも無い仕事でした。それでも、単に会社の仕事をがむしゃらにしているだけでは、どこかさみしいような気がして、入社後6年目ぐらいの頃、仕事が終わってから、ある中国語学校へ通うようになりました。しかし、仕事をしながら学ぶということは、口でいうのは、易しくても、学び続けるということは、たいへんに難しいものです。3ケ月間の所定のコースを終了したことを機会に、それきり、止めてしまいました。
もう一度、中国語への扉を開けてくれたのは、1998年(平成10年)4月に日本で発刊された「月刊BAN☆RAI、萬来報」(東洋経済新報社)を書店で見つけた時です。その時、私はもう50歳になろうとしていました。この雑誌の表紙には、「日中平和友好条約締結20周年記念☆北京放送特約☆」「やさしいビジネス中国語、放送テキスト掲載」とあり、付録にCDまで付いていました。これなら、好きな時に勉強できる。「よし、もう一度、勉強しよう!」という気持ちにさせてくれました。
創刊号の写真は、北京放送の真新しい局舎。そしてその特集は、北京放送の紹介でした。ちょうどその年の秋、まとまった休暇をとれることになったので、私は北京をおとずれました。私にとって、はじめての中国でもありました。北京に来て、私は、いてもたっても居られず、言葉もろくにできないのに、たった一人で、北京放送を訪問しました。そのことは、あとで私のホームペイジにも書くこととなりました。そして、2005年、会社を57歳で辞めた私は、本格的に中国語を勉強する決心をしました。その中国語学校が主催する「中国語弁論大会」それは、卒業課題でもありました。そのテーマを、私は「北京放送訪問記」とし、自分で中国語の作文を行い、それを暗唱し、みんなの前で発表することが、どうにか、できるようになりました。
私が北京放送を訪問した前の年・1997年という年は、香港が中国に返還された年であり、中国にとって、たいへんおめでたい年でありました。一方、私がおとずれた翌1998年の夏には、大洪水が発生したとのことで、北京放送の大半の職員の方は、その救援のため被災地におもむき、長期にわたり復旧作業を行い、私を案内してくれた日本語部の局員さんから「秋の半ばを過ぎた今も、多くの同僚が災害現場で働いている。」と聞きました。
たった2年間のことでも、「良いことも有れば、悪いこともある。」それでも、大切なことは「続けること。」と、私は思っています。
北京放送が日本語での放送を始めてから、今年で65年。このおかげで、私も中国語学習を続けていくことができました。
謝謝、中国国際広播電台・日本語部。
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