北京
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2021年12月3日は中国共産党が率いる中国人民対外放送開始80周年です。その第一声は日本語放送でした。これまでの80年、どのような人たちがどのような思いで放送に携わってきたのでしょうか。シリーズでお伝えします。
⑥北京放送最初の日本人局員
原点は八路軍の少年兵から受けた衝撃
日本が降伏した直後、中国大陸には日本軍や日本人居留民など300万人あまりが留まっていました。送還完了までの数年間に、東北地区の長春(1945年8月)、大連(1946年)、瀋陽(1948年7月)では主に日本人居留民向けの日本語放送が行われていました。これらの放送は北平新華放送局(9月27日から「北京放送局」)の開局と共に使命を終え、放送に携わっていたスタッフの一部は北京に移ることになりました。
1949年10月、当時、極度の人手不足だった北京放送局に、日本人スタッフの第1陣が瀋陽から到着しました。八木寛(ゆたか)さん(1915~2008)と妻のトシさん(1919~2011)です。
東北時代の八木寛さん(左)とトシさん(右)
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八木さんは1915年、愛媛県生まれ。20歳で中国の東北地方に渡り、東北と華北地方を回り、土建屋や塩の商いを行なう会社などを経て、シナリオライターとして日本が偽満州国に設置した国策会社「満州映画協会」に入社。長春で日本の敗戦を迎え、その後、東北電影公司、東北映画製作所での勤務を経て、1948 年 6 月に東北新華放送局に編入。
東北にいた頃、日本人居留民に中国の実情を伝えるため、八木さんは毛沢東の『延安の文芸座談会における講話』を日本語に翻訳し、瀋陽で発行されていた日本語新聞『民主新聞』に発表しました。それがきっかけとなり、八木さんは毛沢東の著作を最初に翻訳・出版した日本人としても知られるようになりました。
新中国成立後、居留民のほとんどが日本に引き揚げた中、八木寛さんはなぜ妻、子供とともに、中国に残ることを決めたのでしょうか。
実は、八木さんが日本の敗戦直後、長春で東北民主聯軍(八路軍)との出会いが大きなきっかけとなったようです。 八木さんは自分史の中で次のような記録を残しています。
「私はこの目で日本軍、国民党軍、ソ連軍、八路軍という4つの軍隊を見てきた。その中でも、最も規律が正しく、まじめで正直だったのは八路軍の兵士たちであった。彼らとの出会いに深く感銘し、そして心の底から彼らに協力したいと思い、シナリオライターだった自分の専門分野である映画の仕事から、彼らと共に新しい中国の発展のために仕事をすると決めた」
若き頃の八木寛さん
1946年3月、国民党軍とたたかう中国共産党指導下の東北民主聯軍 (八路軍)が長春に入城した後、八木さんは、自宅の一部屋を東北民主聯軍に指揮所として提供しました。夜になれば、少年兵たちがその部屋に泊まるようになっていました。
ある晩、山東省出身の少年兵・張君とよもやま話をしていた時のことでした。16歳の張君は両親、兄弟とも日本軍に殺害されたことを八木さんは初めて知りました。張君は「恨みを晴らすために八路軍に入った」と話した後に、こう続けました。
「八路軍の幹部は、中国を侵略し、中国人を殺したのは日本の軍国主義者で、日本の民衆は同じく戦争で苦しんでいると教えてくれました。東北にやってきて日本人を見て、この道理がいくらか分かって来ました。八木さん一家はみな良い人です。いろんなことを教えてくれるし、部屋も貸してくれました。八木さんは友人です。仲間です。同志です……」
その話を聞いた八木さんは涙が止まらず、顔をあげることもできなかったそうです。北京放送局OBの李順然さんは、八木さん本人に聞いた話の記録として、「八路軍の少年兵と八木寛さん」と題したエッセーで次のように綴っています。
「『正直言って、わたしの涙には嬉しい涙もあったんですよ。張君から、友人、仲間といわれ、同志といわれて、しっかり手を握りあった。わたしの心の片隅にずっとあった日本人と中国人という冷たい氷の壁が春の陽を浴びて暖かく溶けていくのを感じて、とてもとても嬉しかったのです』
異国の土地で敗戦を迎えて前途に強い不安を抱く毎日を送っていた八木さんの前に開かれた新しい道――張君たちと、中国の民衆と苦楽を共にしていこうと繰り返し心に誓うのだった。こうして、新しい道を歩む八木寛さんの後半生がこの日から始まるわけである」
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1949年10月に新中国が成立したものの、交通機関をはじめ、国内情勢はまだ完全に落ち着いてはいませんでした。八木さんより約2か月早く入局した陳真さんは、長旅の末、放送局に到着したばかりの八木さん一家との初対面の様子について、自伝『柳絮降る北京より』の中で、次のように書いています。
「不精ひげをはやし、煤だらけの真っ黒な顔をしたおじさん――まるで山賊だ。そのひざにもたれているのは目のクリクリした小さな男の子、そばのソファには、顔だちのととのった女の子が行儀よくチョコンと座っている。二人とも、顔は煤で汚れていた。奥さんらしい女性は背中しか見えない」
その時から、1970年に帰国する日まで、八木さん夫妻は北京放送で20年あまり勤務しました。在職中、八木さんは若手中国人スタッフを連れて、「デンスケ」(取材用可搬型テープレコーダーの商標、ソニーにより1959年に登録)を担ぎ、胡同(裏路地)の物売りの声を収録して番組に使い、北京放送初のリスナーを対象にしたアンケート調査の実現などに貢献しました。また、「お便りの時間」「水滸伝」「西遊記」「街で拾った話」「あの話、この話」……などなど多くの名番組を生み出しました。 そしてトシさんは長年、日本の聴取者からのお便りに対応する仕事を担当し、リスナーに大変好評だった中国の切り紙を送ることを提案した人でもあります。
1960年代初め、中国人若手スタッフ・李順然さん(左2)、日本人アナウンサー・林華さんと長城で取材する八木寛さん(右1)
八木さんは中国人スタッフと日本人スタッフの信望を集め、日本語組の統括、副統括を務めた時期もありました。北京放送の歴史で、外国人が一つの部門統括を務めたのは、八木さんしかいなかったといわれています。
陳真さんは自伝でこのように振り返っています。
「当時は、日本人局員とわたしたちの間は何の分けへだてもなく仕事も待遇も同じであった。八木さんは副統括として業務の指導に当たったが、気さくで誠実で、責任感が強かった」
1955年に入局した李順然さんは、「八木さんの原稿には、どのページにも一字一句手を抜かない真剣勝負そのものの気迫が感じられた」と語っています。八木さんが北京放送に遺してくれた数ある宝物の中には、とりわけ、次の言葉が印象に残っているとエッセーに書かれています。
「毎日、送信所のアンテナから日本に向けて流される一分一秒の電波は目には見えないけれど、とても高いお金を払っているんだよ。このお金は、労働者や農民が汗を流して手に入れたお金、わたしたちはこれをお預かりしているのだ。一銭一厘たりとも無駄にしてはいけない。番組製作に当たっては、一分一秒たりとも手を抜いてはならない」
北京放送時代の八木寛さん
1960年代初頭・同僚とともに(右2が八木寛さん)
1960年代後半・同僚とともに(中央が八木寛さん)
仕事だけではなく、若い中国人スタッフにとって、八木さん夫妻は生活の面倒まで見てくれる家族や親戚のような存在でした。
李順然さんによりますと、「当時、独身だった多くの中国人スタッフたちが風邪をひいて熱を出すと、まず駆け込むのが『八木病院』、つまり八木さんのお宅でした。八木家に行くと、奥さんが作ってくれたおかゆや茶碗蒸しを食べて、ふわふわの布団で2~3日静養します」。このように、八木家の心も体も温まるおもてなしを受け、八木さんの教えを受けた若い中国人スタッフは、名前が分かる人だけでも百人近くに上るそうです。
1960年5月9日午後、天安門広場に集まる北京市民百万人による「日本人民の反米愛国闘争を声援する大集会」の実況中継に立つ八木さん(右から八木寛、李順然、方宜)
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凍土(いてつち)に 凍(いて)つき生ける 根深(ねぶか)かな
これは八木さんが残した俳句です。酷寒の地での厳しい暮らしぶりを表現しています。故郷・愛媛は正岡子規の出身地である土地柄から、小さい時から俳句が好きだったようです。また読書が大好きで、家には中国語の書籍が沢山ありました。
三男・章さんによりますと、八木さんは今治西高校の前身である旧制中学校時代は野球に打ち込み、北京では、夕食後にレストランに設置されている卓球台でひと汗かくのが趣味だったそうです。しかし、スポーツ以上に好きだったのが俳句でした。祖父と父の影響を受けて、小学生の時からたびたび父と一緒に俳句の集まりに出向いていたそうです。
北京放送での収録風景(前列右から李順然、八木寛、仰木道之)
八木さんは、中国が文革のさなかにある1970年に一家を引き連れて北京を離れ帰国しました。定年してすぐに帰国を決めた理由について、八木さんは自分史の中でこう綴っています。
「帰国にはいろいろな理由がありました。年齢、郷愁、子供たちの成長といった個人的な問題のほかに、いつも心の底にあったのは、中国の民衆の生活レベルから浮きあがっているいわゆる『外国人専門家待遇』です。こうした恵まれすぎた生活を続けていくことが不安だったのです。中国の民衆と苦楽を共にするという初志から離れていくのが不安だったのです……」
日本に帰った八木さんは、中国関連の書籍を扱う東京の東方書店で出版部長を務めるかたわら、北京放送の普及を主旨とする「北京放送を聞く会」のボランティア活動などを通して、中日友好に汗を流し続けていました。
帰国後、「北京放送を聞く会」を立ち上げてボランティア活動に励む八木寛・トシ夫妻(最終列・右2が寛さん、前列右1がトシさん)
文革後、中国から八木さん夫妻に「専門家として北京放送に戻って欲しい」という要請が何度もありましたが、その都度、「わたしも歳をとりましたので、昔のようには働けません。そちらに行ってもお手数をおかけするだけです。わたしは日本で北京放送の普及など、日中友好の仕事を続けます」といって固辞しました。
1994年、八木さん夫妻は仕事で北京に駐在していた息子たちに迎えられ、再び北京に戻りました。
北京の自宅にいる八木寛さん・トシさん
2008年12月23日、八木寛さんは北京でその生涯を閉じました。享年93歳でした。トシさんは2011年2月2日に北京で他界し、享年91歳でした。北京放送局で過ごした20年あまりの人生について、子どもたちが父親を偲ぶアルバムで次のように総括しています。
「父は多くのものを学び、互いに信頼しあう多くの同僚に巡り会った。忙しい日々ではあったが、父にとっては最も楽しく、幸せで、忘れ難い日々でもあった」
北京の自宅で昔の同僚たちと集まる八木さん夫妻と長女・ゆかりさん(前列中央)と長男・信人さん(2列目右1)
1996年秋 北京の自宅で北京放送スタッフの李健一さん、鄭湘アナと日本から訪れたリスナーの神宮寺敬さん・綾子さんを迎える八木さん夫妻
そして、晩年の北京生活について、こう綴られていました。
「20数年ぶりの北京での生活は、父にとって以前の中国での体験とは全く違う、激変する新しい中国を実感する日々であり、また、親切な中国の人たちにも恵まれ、ゆ ったりとした、楽しい晩年であったに違いない」
(文責:王小燕、星和明、写真提供:八木信人、八木鉄、八木章)
【参考資料】
◆胡耀亭『中国国際広播電台発展史第1卷》(中国国際広播出版社、2011年11月)
◆八木鉄自分史『光陰矢の如し』
◆「華風(ホワフォン)」八木章のブログ 2021年06月23日
◆李順然『二十世紀人留給二十一世紀的故事』(外文出版社、2012年)
◆1999年10月10日付「人民日報」記事「最初に毛沢東の著作を翻訳した日本人」(孫東民記者)
◆陳真『柳絮降る北京より――マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年1月)
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