趙尚は、有名な抗日将軍で、東北抗日連合軍創立の創始者を指導者の一人です。1908年10月遼寧省朝陽県に生まれ、1919年、家族と一緒にハルピンに流浪し、若い時代に、愛国的学生運動に身を投じた。1925年夏、中国共産党に入党し、東北地区で最も早く共産党に加入した党員の一人です。同年冬、任務を受けて広州に赴き、黄埔士官学校の第4期学習に参加した。1926年5月、共産党からハルピンに派遣され、地元の共産党組織の創立活動と反帝国主義、反軍閥の革命活動に従事した。趙尚は、二回に亘って逮捕され、硬軟両様の手段を用いる敵を前にして、共産党の秘密を守り、終始節を曲けず敵に屈しなかった。1931年『九一八』事変後、共産党組織に救出された後、中国共産党満州省委員会常務委員、軍事委員会書記に任命された。1933年10月指導者として北満珠河で反日遊撃隊を組織した。部隊の発展と拡大に伴い、1934年6月東北反日遊撃隊ハルピン小隊の司令官に任命され、李兆麟らの指導者と一緒に珠河、湯原抗日遊撃隊の根拠地を建設した。1935年1月、東北人民革命軍第3軍の司令官を担当した。その後、中国共産党北満省委員会執行委員会の主席一時を務め、東北抗日連合軍第2路軍の総指揮官を担当した。日本侵略軍の狂気の『討伐』と『掃討』を前にし、極めて困難な環境で、趙尚は抗日連合軍を率いて日本侵略軍と勇敢に戦い、敵の『討伐』と『掃討』を粉砕した。1942年2月12日、趙尚は敵との戦いで負傷し、逮捕された。敵は趙尚の頭を切り取り勝利品として長春に運び、彼の身体を松花江に投げ捨てた。犠牲になった時わずか34歳でした。新中国解放後、趙尚が抗日戦争で立てた功績が表彰され、抗日英雄として永遠に思いを馳せるため、人民政府は、珠河県を尚志県に改名し、犠牲の地区を尚志村に改名し、ハルピンにある主な道を『尚志大街』と名づけた。
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