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ラーベ:25万の中国民間人を救援したドイツ人

2009-11-25 09:30:03     cri    

 ジョン・ラーベ(John H.D. Rabe, 1882 - 1950)は、ドイツ人。1930年代にシーメンス社の南京支社長、南京安全区国際委員会委員長を務めた。

 入選理由:

 ジョン・ラーベは「南京のシンドラー」と呼ばれ、1937年から1938年まで、日本軍による南京攻略戦の際に、南京安全区国際委員会の委員長として、約25万の中国民間人を保護して、日本軍による殺害の危険から救った。国際社会で日本軍隊が起こした非人道的行為の防止を呼びかけたため、本国ドイツのゲシュタポから迫害された。

 ラーベは救援活動のほか、貴重な遺産も後世に残した:南京攻略戦の際に日本軍の残虐行為を記録した――「ラーベ日記」。この日記は日本軍の残虐行為の否認を企む人にとっては最も見たくない確証の一つになった。上海に駐在するドイツの総領事は南京にあるラーベ旧居の完成式で「彼ほど独中両国の友情を代表する人はいない」と語った。

 中国との縁:

 ラーベは1909年に中国に来て、前後にして北京、天津、南京のシーメンス支社の支社長になった。中国で丸30年暮らし、中国社会の各階層と接触があったので、中国社会について独特な見解を持っていた。1937年、日本軍が南京に侵攻する直前、北戴河から南京に戻り、外国人らに南京安全区国際委員会の委員長に推薦された。12月3日、日本軍は南京を占領、残酷な残虐行為を行った。ドイツ人として日本との特殊な関係を利用し、自宅に600人以上の中国民間人を収容した上で、担当する4平方キロメートルの安全区内で、彼をはじめ、十数人の外国人は、25万人の中国人の命を助けた。小粉橋1号院の貸家で、有名な「ラーベ日記」を書いた。1938年の春、ラーベはドイツに戻った後、日本軍の残虐行為を暴露した演説により、ゲシュタポに迫害された。

 第二次世界大戦が終わった後、ラーベは同盟国の占領軍により不公平に扱われた。失意な中、南京市民から食べ物などを贈られ、生きていく勇気をもらった。1950年に脳卒中のため死去。1996年の末、「ラーベ日記」が見かった後、世の中の人に知られた。彼の墓碑は1997年にベルリンから南京大虐殺紀念館に移されて保存された。(翻訳:婉)

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