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改革開放30周年~30年の生活革命

2009-08-07 17:19:14     cri    








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 今年は中国の改革開放政策実施30周年に当たります。「イキイキ中国・国慶節特別番組」、改革開放30年来、中国国民の生活にスポットを当てます。

美意識が蘇った

 改革開放政策が実施される前、中国では、老若男女を問わず、服の色は一色でした。緑、青、黒、灰色、都市でも農村でも、人々は単調な色に身を纏っていました。

 改革開放政策が始まると、外国の製品がどんどん中国市場に進出して、人々の心の奥に隠れていた美意識も蘇りました。

 1979年の春、フランスのアパレルデザイナー、ピエール・カーダンさんは北京の民族文化宮でファッションショーを行いました。当時の中国人にとって、このショーは未曾有の衝撃をもたらしました。翌年の11月、中国大陸初のモデルチームが上海で設立され、初のショーを披露しました。そして、1983年、中国で数十年間も施行された洋服の生地を買うのに必要な「布の購入券」が取り消されました。アパレル産業の改革は全国に広がり、国民の生活に新しい風を吹き込みました。

 1984年の上海、ほとんどの写真スタジオには撮影用の賃貸背広が用意されていました。「男性は背広、女性は赤いスカート」、これは当時一番モダンなファッションでした。特に、『町中の赤いスカート』という映画が上映されてから、多くの女性は赤いスカートのファンとなりました。町中で赤いスカートをはいている女性の姿は至るところで見られ、その時代の象徴として人々の記憶に残りました。

 また、1980年代の半ば頃、ベルボトム型のラッパズボンが流行り出しましたし、ドルマンスリーブは女性の心を奪いました。男女を問わず、ラッパズボンにパーマ、中国人は勢い良くファッションのトレンドに追いかけようとしていました。

 1990年代、経済発展に伴い、国民の生活レベルがどんどん高まって来ました。ブランド志向が強調される一方、欧米文化の影響によって、ジーンズや英文字の印刷されたTシャツなどは若者を中心に人気を呼んできました。21世紀に入ってから、環境に優しいライフスタイルはファッションにも影響を与えています。カジュアル的で、流行の流れに身を左右されず、個性を言い張る時代を迎えてきました。

中国製の30年間

 改革開放政策が実施された30年、中国の製造加工業は急速な発展を遂げました。Made in Chinaは世界中に満ち溢れ、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになりました。外国ブランド製品の加工を進める一方、中国の国産ブランドも紆余曲折した30年を歩んできました。

 自転車王国と呼ばれる中国。「鳳凰自転車」や「永久自転車」はかつて1970、80年代の三大神器でした。その時代、自転車を買うには、特別な購入券が必要で、自転車売り場の前、買い物客の長い列をよく見かけました。また、通勤ラッシュの時、自転車の波は中国を代表する特別な風景となりました。

 1970、80年代、車と言えば、ほとんどの中国人は「紅旗」しか知りませんでした。赤い旗と書く「紅旗」は1958年に誕生した中国の国産車で、国家指導者らの専用車でもありました。その時代、「紅旗」はただの車ブランドだけではなく、地位や権力のシンボルでもありました。

 しかし、今、世界中にあるほとんどの自動車ブランドは中国の土地で走っています。マイカー族も絶えず増え、自動車は一般庶民の生活に染み込んできました。外国の大手自動車メーカーが中国市場での業務を進める一方、吉利や、奇瑞(チェリー)など、中国の国産車も激しい競争の中で強く生き残って、国際進出の道にも歩みだしました。

知識と技術は運命を変える

 今年の春節、江蘇省南通市お住まいの楊国強さん一家はヨーロッパへの旅に出かけました。これは楊さん家族にとって、三回目の海外旅行でした。

 楊さんは1990年代、個人経営者として、小さな紡績工場を開設しました。民営企業家として、楊さんは工場の営みに全力をかけ、去年は30%以上の利潤額を上げたということです。

 これまでの30年を振り返って、楊さんは次のように語りました。

 「私は農民の出身です。改革開放の前、畑仕事をして、収穫の悪い年には、お腹いっぱい食べることさえ出来ませんでした。改革開放政策のおかげで、私は自分の工場を作って企業経営者となりました。生活はだいぶよくなりました。心から政府に感謝しています。でも、いま、市場競争はとても激しいです。いろいろな新しい知識や技術を勉強しないと、淘汰されますよ。このような危機感を抱いてもっと頑張りたいと思います。」

 黒龍江省生まれの芦鶴さんは今、北京でマイホームやマイカーを購入して、自動車セールスの仕事をしています。今年30歳の芦さんは改革開放政策が実施された年、1978年生まれの人で、改革開放の30年はまさに自分の成長を振り返る30年でした。

 「僕は改革開放とともに成長してきた人間です。僕の記憶では、小さい頃、生活はとてもきつかったですね。玩具やおやつなど、何もありませんでした。卒業してから、北京に来ました。北京に来たばかりの頃、故宮に入って見たかったが、数十元の入場券さえ買えませんでした。そして、セキュリティ会社の警備員となり、1000元ぐらいの月給をもらいました。お金を節約して、夜間大学で英語を習いました。そして、いまは自動車販売店のセールスマンになりました。いまの月給は5000元ぐらい、北京でマイホームもマイカーも手にしました。大満足で、心から幸せに思っています。」

 激動の30年、改革開放政策が中国にもたらした変化や、国民に与えた恩恵は肌で感じられます。これからの30年、13億人の生活革命はさらに激しくなるでしょう。

関連データ

  30年前の中国、完全な計画経済が実施され、農村は人民公社、都市の工場や商店はすべて国営のものでした。1978年12日に開かれた中国共産党第11期三中全会で、トウ小平氏は「改革開放政策」を打ち出し、中国が世界への門戸が次第に開かれました。それから30年、市場経済の原理が導入され、都市も農村も工場も大学も、すべてが激動的に生まれ変わりました。そして、人々の考え方やライフスタイルもますます変わってきました。

      

 1978年11月、安徽省鳳陽県のある生産隊18戸の農民は農家ごとの生産請負にチャレンジしました。その後、政府は農家ごとの生産高リンク請負制という生産方式を認め、全国に普及しました。これは改革開放政策が中国の農村で歩み出した第一歩だと言われています。2001年3月、中国では、農村の税金改革が行われました。農村にあるさまざまな税金を廃止したり標準化して見直されたりして、市場経済体制にふさわしい農村の税制が確立されました。2005年10月、中国共産党第16期5中全会で、「社会主義の新しい農村作り」というスローガンが打ち出され、新農村の建設が全面的に進められました。2006年、中国では、農業税がすべて廃止されました。

 1978年、国有企業に対する経済体制の改革がスタート。企業が自主的な経営権をもつようになりました。1983年、「利潤を税金に変える」という政策が普及され、大、中型の国有企業は従来の利潤上納制度から、利潤の55%を企業所得税として国に納めることになりました。1986年、国有企業の改革が全面的に行われました。リース制度、請負制度、株式制度、国有企業の経営方式は多様化に発展してきました。1992年、「近代化の企業制度の樹立」は国有企業の改革目標に定められ、「経営権」と「所有権」の分離や、財産権の明確化、政府と企業の分離が正式に要求されました。

 1977年、復帰したトウ小平氏はすぐに大学入試制度を再開するよう提言し、そして、前例を破ってこの年の12月、全国で大学統一入学試験が行われました。1978年には大学、大学院の学生・院生は85万6千人でしたが、2006年には2千300万人に拡大しました。また、2006年、2273校の大学で500万人以上を募集しました。新中国が成立してから、1985年までは、大学の学費は免除されていました。1989年から少しだけ学費を徴収し始めました。その後、次第に学費の額を引き上げ、現在、北京市の大学の学費は年間4200元から6000元まで、日本円のおよそ6万3000円から9万円までの程度です。新中国成立の後、大学卒業生は国によって仕事を配分されましたが、2000年から、国による仕事の分配をやめ、卒業生が自主的に職業を選べるようになりました。その結果、就職は大学卒業生の大きな難題となりました。(CRI総合編集)

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