侯宝林は、1917年天津で生まれた中国漫才史上の巨匠です。
実家は暮らしに困っていたため、四歳の時に彼は叔父さんに連れられて、北京の侯家に引き取られました。継父は貝勒の屋敷でコックをしていましたが、貧乏な家でした。このため、侯宝林は幼い頃から、生活の厳しさを十分味わっていました。1929年、十一歳の侯宝林は閻沢甫先生の弟子になり、京劇の勉強を始めました。十二歳の時、漫才に興味を抱いていた侯宝林は、常宝臣先生、朱闊泉先生の弟子になって、漫才の勉強をしながら、北京の天橋や鼓楼の辺りの露店で漫才の公演をしていました。当時、伝統的に、伝統演劇の「トリ」をとるのは「太鼓」と決まっていましたが、努力の末、侯宝林の漫才はやっと伝統演劇の「トリ」をとることができるようになり、漫才界にも大いに面目を施したということです。その後、侯宝林は同じ漫才師ー郭啓儒とパートナーになり、当時の漫才の俗っぽさを排し、素朴ながら雅びな趣きのあるスタイルで評判となりました。侯宝林は伝統漫才を演じる一方、現実生活を反映する新しい漫才を数多く創作しました。
1959年、侯宝林は中央放送文工団に入り、中央人民放送局で沢山の漫才を録音しました。国内と海外の舞台で活躍しており、「漫才巨匠」や「人間国宝」と呼ばれています。晩年にはいり侯宝林は伝統民間芸能の理論研究に専念し、「民間芸能概論」や「漫才芸術論集」などの著作を出版しました。
1993年2月4日、享年77歳で侯宝林は亡くなりました、。彼は民衆の芸術家であり、「喜びと笑いを民衆に」という事業に生涯を捧げました。侯宝林は臨終前、「この侯宝林は、一生をかけて漫才をやり、一生をかけて漫才を研究しました。私の最大の願いは、最高の芸術を皆さんに捧げることでした。すべての観客は、私の恩人であり、命の親で師匠だと思います。漫才を何十年やり続けても、このご恩は返しきれない。今の私は、その願いを叶えられなくなりましたが、一生愛している漫才芸術が大いに発展するように心の底から祈ります。もし何時か、皆さんと別れなければならない日が来たら、私も笑いながら去って行きます。皆さんのご健康を祈っています。」と語りました。(楊 思嘉)
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