今日は中国南西部貴州省のミヤオ族に伝わる蝋燭染めをご紹介します。蝋燭染めは中国の民間の伝統的な紡績手工芸品で、麻、糸、綿花、毛などの天然繊維織の織物に蝋で花模様を描き、青の染物の中の甕につけます。蝋がついているところは色がそまらないので、蝋を取り除くと、布に美しい花模様が出来上がります。蝋燭染めの工芸は中国南西部少数民族地区、特に貴州省少数民族地区に伝わっています。蝋燭染めはミヤオ族の、特に女性とって、大切な技術となっています。中でも丹賽県ミヤオ族は、蝋燭染を主要な装飾としています。
丹賽県装典服装工場の汪静さんは「これらの図案はミヤオ族の人々が自分で作り出したもので、専門の本や図案はありません。たとえば、魚だけでも、数百種類の図案を描けるわけです。」と話してくれました。
蝋燭染めに関して、こんな美しい伝説があります。ある美しいミヤオ族の娘が自分の洋服の色が単調なのに満足できず、スカートに各種の花のデザインを染めたいと考えました。しかし、一着ずつ染めていたのでは手間がかかります。ある日、彼女は公園の中で眠っていて、ある夢を見ました。夢の中で、きれいな衣装を身に着けた花姫が彼女を百花園に連れ込みました。娘は花畑の中で花に見入ってしまい、蜜蜂が彼女のスカートにいっぱい這い上がっているのにも気がつきませんでした。彼女は目を覚ますと、蜜蜂がスカートに点々と蜜汁と蜜蝋を残っていて、大変美しいことに気づきました。彼女はスカートをもう一度染め直しました。染めたあと、もう一度沸騰した水の中で漂白しました。今度沸騰した水の中からスカートを取り出したとき、青色のスカートの上の蜜蝋が残っているところに美しい白い花が現れました。人々は彼女が染めたスカートを見て、その絵画の技術を学び、色とりどりの花の布を染めました。その後、蝋燭染めの技術はミヤオ族で伝わってきたのです。
貴州省丹賽県は省の中で、蝋燭染めの職人が最も多く誕生したことから名を知られています。特に民間芸人が描いた蝋燭染めの芸術は指折りのものです。
例えば、蝋燭染めの名人である王阿勇さんは二回にわたって、太平洋を越えて、アメリカのシカゴとアトランタで蝋燭染めの技を披露しました。その結果、アメリカの人々から「東方の芸術家」と呼ばれました。1986年と1988年、蝋燭染めの女性職人、楊芳さんは招きに応じて、香港と北京で蝋燭染めのパフォーマンスをしたときには、「蝋燭染めお嬢さん」という称号を与えられました。
このほど、北京で開催された第二回「多彩中国」の民族文化フェスティバルで、少数民族無形文化遺産の展示が行われました。この中で、丹賽県の蝋燭染めの名人が現場で技を披露し、多くの観客の注目を集めました。現場にいた観客の一人、白瑞傑さんは「蝋燭染めにとても興味を持ちました。特に彼らの技をみて、びっくりしました。こんなに完璧な芸術品を見たのは初めてです。本当に美しいですね。中華民族が手作り工芸品を継承、発展させることは、中華民族の継承にもなります」とこのように話してくれました。
丹賽県の蝋燭染めの展示ブースを見学すると、ここのベテラン職人は全て女性であることに気づくと思います。ミヤオ族の風習に基づき、全ての女性が蝋燭染めの技術を身に着けなければなりません。親から子へ、お母さんは自分の子供に蝋燭染めの技術を伝えていくのです。
全てのミヤオ族の女性は幼いころからこの技を勉強し、自分で布を織り、裁断し、代々、受け継いでいきます。これが続いていく限り、伝統文化が保護されます。
この民族の伝統工芸を保護、継承していくために、丹賽県では民間の蝋燭染め協会と服装工場を設立しました。民間芸人を支えとし、ミヤオ族の蝋燭染めと刺繍の工芸などの関連製品の研究に力をいれ、生産、加工、販売を一体化したところです。この蝋燭染めという伝統民間工芸の継承について、丹賽県服装工場の汪静さんは「現在、蝋燭染めに従事する人がますます多くなってきました。今後は、この技術のブランド化を目指していかなければなりません。よりよいものを作って、一種のブランド品として、蝋燭染めが受け入れられるよう努力していきたいと思います。」と話してくれました。
今回の民族文化フェスティバルのもっとも大きな目的は全社会、各民族地区で民族文化遺産の保護に力をいれてもらうことです。今回の文化フェスティバルでは、少数民族の衣服や職人技が披露され、民族文化遺産保護に啓発的な役割を果しました。主催者の中国民族博物館葦栄慧副館長は「多くの観客が展示品を買いたいと申し出てくれました。われわれにとっては、目的に達成できたといえます。ただ今回は展示が目的なので、販売用のものは持ってきていませんでした。来年には、民族文化フェスティバルが開催されますが、その規模は今年より、もっと大きいでしょう。」と張り切っていました。今後もっと大規模な民族文化フェスティバル・・今から楽しみですね。
|