今晩は、ご機嫌いかがでしょうか?林涛です。
今日のこの時間は、中国の成語をいくつかご紹介しましょう。
まずはじめは、「邯?の?」、昔の本「庄子秋水」からです。
「邯鄲の歩」
二千年も昔のこと。燕の国の寿陵というところにある若者が住んでいた。若者はまあまあの暮らしで、顔立ちも悪くはなく背丈もある。しかし若者には自信というものがなく、わけもないのに自分は何事も人には及ばない、自分は人より劣っていると思い込んでいる。そして衣類は人のものがよく、人の家の食べ物は我が家のよりもうまいと考え、また、自分はどんな格好をしてもだめだと決め込んでいる。その上何を学んでも習得できず、いろいろと変えてやってみても何一つ満足のいくことはなく、そのうちに自分は何をしたらいいのかわからなくなってしまった。
もちろん、両親や姉妹などは、懸命に若者を慰めたり、励ましたり、または言い聞かせたりしたが、若者は身内は自分のことをかまいすぎると嫌がった。また、親戚や友人、それに隣り近所は若者に「自分を信じて何事をもしっかりやれ。余計なことを考えるな」と励ますが、若者は相手にしない。そのうちにみんなは匙を投げ、知らん顔するようになった。
こうして日がたつにつれ、若者は自分の歩き方をも疑うようになり、どうしたらもっとしっかり歩けるのかと朝から晩まで考えるようになっていた。
と、ある日、若者は路上で数人の近所の人が笑い声を交えて立ち話をしているのを見て、なんだろうと自分も近くで聞こうとした。ところが立ち話をしていた人々は若者が自分たちの話を聞きに来たのを見て、そのままどこかへ行ってしまった。
「なんだよ。くやしい。みんなわたしを馬鹿にしやがって!でも、さっき誰かが邯鄲の?き方がなんかどうかなどといってたな」
と、若者はそのまま屋敷にかえり、部屋にとじこもって邯鄲の人の歩き方なるものを想像し始めた。しかし、どうしてもわからない。我慢できなくなった若者は、ついに自分の小遣い全部と勝手な理由をつけて母からもらったお金をもち、この目で邯鄲の人の歩き方をたしかめてやろうとある日の朝早く自分一人で邯鄲に赴いた。で、道々人に聞いて翌日の昼ごろにやっと邯鄲についた。
「うわ!邯鄲とはいいところだなあ。ええ?!」と目に入るものは若者にとってはすべて新鮮であり、子供を見ると元気にかわいらしく飛び跳ねて歩いており、老人を見ると実にゆったりと落ち着いて歩いているように見える。また女たちはいずれもしなやかな歩き方をし、誰を見てもその歩き方を学びたくなった。こうして半月が過ぎた。ところが、いろいろな歩き方を学ぼうと毎日歩き方を変えていたので、自分の歩き方まで忘れてしまい、また持ってきた金も使い果たしてしまった。
こうして若者は仕方なく、歩くことを忘れ、なんと這って自分の住む町に戻っていったそうな。
やれやれ!どうしたことか!
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