次は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」です。これは復讐の心を抱き、常にそのことを思って辛苦することらしいですね。「十八史略」という書物から。
「臥薪嘗胆」
時は、紀元前の春秋時代である486年のこと。呉の王闔閭(こうりょ)は兵を率いて越の国を攻めたが、越の王勾践の軍隊に負けてしまい、闔閭も大怪我をしてしまう。そして息子の夫差に、「越の王勾践がお前の父を殺したのじゃ。この仇はきっと討ってくれ」といって死んでしまう。
そこで、夫差は父の遺言をしっかり心に刻み、そのときから兵の訓練を続け、越への攻撃に備えた。そして二年後に夫差は、兵を率いて勾践の軍を打ち負かし、勾践自身も夫差の兵に包囲された。これではおしまいだと見た勾践は自殺しようとするが、これに気付いた謀臣の文種がそれをとめた。
「呉の大臣である伯ヒは富を愛し色を好みますゆえ、人をやって伯ヒを抱き込みなさいまし。」
これを聞いた勾践はさっそく文種に美女の西施を連れさせ、多くの宝物を持たせて伯ヒの元に行かせた。案の上、伯ヒは西施と宝物を見て話にのり、宝物は自分がしまい、翌日に西施をつれて、軍を率いて越を占領している夫差に会いにいくよう文種に勧めた。
そこで文種は伯ヒのいうとおり、翌日、夫差にあって西施を献上するといい、「越の王は降伏したいと申していりますので、どうか越の王を許してやってくださいまし」と願い出た。
すると事前に宝物を受け取った伯ヒがすかさずいう。
「王、そうなされ。越の王が降伏したいと言っているのですから」
これを聞いていた呉の武将伍子胥が大声出でこれに反対した。
「申し上げます。災いは根から取り除くべきだといいますぞ!勾践はずるがしこく、将来のことをよく考える人物。またここに来た文種、それに範蠡は優れた謀臣ですぞ。もし彼らを許せば、いつかは仇を討ちにきますぞ!」
夫差はこれに眉をひそめた。夫差には越はもう衰えてしまい、何にもならないという考えがあり、その上、越が献上した美女の西施のに見とれてしまって、武将の伍子胥のいうことなど相手にせず、越の願いというものを受け入れ、翌日に西施をつれて、軍と共に呉の国に戻っていった。
|