さて、呉の軍隊が撤退したあと、相手を油断させるための一策として勾践は妻と謀臣の範蠡などをつれ、呉の国へ向かいご機嫌伺いにと夫差にあって、許してくれたに対して礼を述べた。その後勾践らは呉の国で屈辱的な扱いを受け、牛や馬の世話をやらされたり、何でも言うとおりにさせられた。しかし勾践はそれでも我慢したので、呉の王夫差は勾践をまったく信じるようになり、三年後に勾践らを自分の国に帰らせた。
こうして越に帰った勾践は、この仇はきっと討ってみせると決意した。また己の決意が徐々に薄らいでいくの防ぐため、夜は石を枕に細く切り並べた薪の上で休んだ。また部屋には動物の苦い胆汁を置いて、毎朝それをなめては自分を戒め励ました。そして、国のことは文種に任せ、軍のことは範蠡にたのみ、自分は農民と共に畑仕事に汗を流し、妻もつつましく暮らして毎日機織りに精を出していた。
このような勾践らの行いを見た越の役人と庶民たちはひどく感動し、自分たちも王と同じように国の再興のために頑張るようになり、こうして数十年の努力を経て、越の国は蓄えを増やし、兵も強くなり、元の弱い国は徐々に強くなっていったのだ。
さて、呉の王夫差は、一番の敵であった越の国を打ち負かしたあと、美女の西施を相手に遊び戯れ、贅沢でみだらな日々を送っていた。また、夫差は民百姓の苦しみを無視し、常に民百姓から兵を徴集し、他の国と戦をはじめ、さらには奸臣となった伯嚭の言いなりになって、忠臣である伍子胥を殺してしまっていた。こうしてこのときの呉の国は、見たからには強かったものの、実は下り坂にあったのだ。
のち紀元前482年、王夫差は自ら大軍をひいきて北上し、各国と結んだ同盟の盟主という地位を晋の国と奪い合った。越の勾践はこれを知り、主な軍隊のいなくなった呉の国を攻め、留守をしていた皇太子を殺し、呉の都を占領しようとした。この知らせに驚いた夫差は慌てて軍を率いて帰国し、勾践に講和を求めた。呉の大軍が戻ったのを見て、これでは呉はすぐには滅ぼせないと見た勾践は、仕方なく講和に同意した。
その後紀元前473年、今後こそはと、勾践は兵を率いて呉を攻め立てた。このときの呉は強弩の末、つまり最後のあがきの時期にあり、越の軍隊の攻撃を防ぎきれず、後へと引くばかり。これはいかんと、夫差は使者をだして勾践に講和を申し入れたが、武将の範蠡たちは、あくまでも呉の国を滅ぼされよと勾践に言上したので、勾践はこれまでの決意を曲げぬとして講和を断った。これを知った夫差は自分の忠臣であった伍子胥の諫言を思い出し、また奸臣の伯嚭のそそのかしの下に伍子胥を殺してしまったことを悔やみ、これで自分は終わりだと剣を抜き、自らの首をはねたのだ。
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