左宗棠(1812ー1885)湖南省湘陰県の出身で、科挙の最終試験に3度失敗した大器晩成型の政治家だと言えます。また、曽国藩や李鴻章と共に、清の末期の「三大臣」と称されています。彼の政治生涯にかかわっている、カギとなる官僚が3人います。彼の才能を最初に発見したのは「両江総督」の陶澍で、その後、胡林翼の推挙により官職につき、そして、胡林翼の紹介で林則徐と知り合いになりました。軍隊を率いて新疆を回復したとき、使っていた地図は林則徐が描いたものだということです。
左宗棠はまた、洋務派官僚の一人として名が知られています。彼は福州の「福州船政局」(馬尾造船所)を創設し、軍備の近代化につとめていました。「福州船政局」は中国近代史で最大の造船企業として、長い期間全国工業科学技術の発展に大きな影響を及ぼしました。また、造船所は安い燃料を必要とするため、台湾の基隆炭鉱が開発され、これは中国が初めて機械を使って採掘した炭鉱となりました。また、台湾近代工業のはじまりだと見られています。
1864年、新疆地区ではホイ族やウィグル族などの少数民族による蜂起が起きました。1875年左宗棠は新疆の軍務を担当する欽差大臣に任命されました。1877年にはヤクブベクを指導者とする回教徒の反乱の鎮圧に成功しました。とろろが、 新彊への進出を企図するロシアは、居留民保護を口実にイリ地方を占領し、反乱平定後もそのまま居座りました。 これに対し、左宗棠は武力解決を主張しましたが、いれられず、北京へ召還されました。 のちに清仏戦争が起こり、欽差大臣として福建へ派遣されました。だが、彼の創設した南洋海軍はフランス軍の攻撃にあい壊滅。1885年、敗戦の報を受けてまもなく、失意のうちに病没しました。
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