清明節(せいめいせつ)と言えば、お墓参りと冷食??火を使うことを禁ずるという二つの形式が主な内容で、今もこの風習が残っています。清明節とお酒がどんな関係にあるのか、このことに触れる前に、清明節にお墓参りをし、火を禁じたりするのはどんなわけかを説明しておきましょう。
実は清明節の二日前が、寒食節(かんしょくせつ)といって、春秋時代の介子堆という人を哀悼する祭日です。その三日間は火を使わず、冷食に徹します。それゆえ、清明節と寒食節が一つになり、お墓参りという形で残り、この日には火を使わず冷食で済ますという習わしが続いているのです。
晋の文公が難にあった時、介子堆は難を共にし、晋の文公を助けました。晋の文公が王位に即くと、介子堆のことなど忘れてしまいます。これには周囲のものが不服に思い、君子を諌めます。晋の文公はその時はじめて苦難を共にした介子堆を思い起こし、官職を与えようとするが、介子堆は山奥に隠居し、捜しても見つかりませんでした。文公は山を焼けば、介子堆も母を背負って山を降りてくるだろうと思ったが、焦げた大木の下に、母を抱いたまま焼け死んでいる介子堆の姿が見つかったのです。これには、君子の文公はたいへん悲しみ、火を使うことを固く禁じたので、『寒食』、つまり冷食の節日『寒食節』と呼ぶようになりました。
でも、歴代の一部の皇帝は介子堆のような臣下がいては困ると思って、いろいろな口実で寒食節を取りやめる法令まで公布しましたが、大衆の間では依然として続いていました。『三国志』で知られる曹操も命令を下し、命令に従がわぬ父兄は半年の刑、官員は百日の刑、官長は一ヶ月の俸禄を取り消すなど処罰条例まで公布して禁じたものです。冷食とは言え、お酒だけは制限を受けなかったのです。
それどころか、唐代には、清明節に宮廷で宴席を設け、臣下を持て成し、宰相にはトキンイバラを浸けた酒を授け、朝廷の苦労を労いました。
それにしても、この時に酒を飲むのは一つは冷食に耐えるため、エネルギーを補給すること、また一つは肉親に寄せる哀悼の悲しみを酒の力で紛らわそうとすることにあります。
清明はまた一年で最も気候温和な時節で、唐代の詩人杜牧も『清明』の中で、
清明(せいめい)の時節(じせつ)、雨(あめ) ふんふん
路上(ろじょう)の行人(ぎょうじん)、魂(たましい)を断(た)たんと欲す。
と詠っていますが。旅路で迎える清明、旅人である杜牧もいっそう寂しさを感じたに違いありません。そんな時 に恋しくなるのがお酒で、杜牧も次ぎの句で、
借問す、酒家(しゅか)は何(いず)れの処にかある、
牧童(ぼくどう)、遥(はる)かに指差(ゆびさ)す、杏花村。
通りすがりの牧童に、「居酒屋はどこにあるのかね」と訪ねると、牧童は黙って遥かかなたの杏の花咲く村里を指差した」と詠っています。
|