1945年8月日本は敗戦を迎えました。そのとき、中国共産党中央は東北で航空学校を創設することを計画していましたが、パイロットなどを養成する教官はなかなか見つからなかったのです。困っているところに、東北民主連軍に包囲され、武器を引渡して投降した日本軍は関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊だという情報が入ってきました。その飛行隊の隊長は林彌一郎さんでした。そして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会し、中国空軍の創設に協力していただきたいと要請しました。これに対して林さんは「訓練生は教官に絶対服従すること、日本人の栄養を保障すること、日本人の生活問題に関心を持つこと」という3つの条件を提出しました。民主連合軍の指導者は即座に応じました。こうして、林さんが22人の日本人パイロットや整備士およそ280人の部隊を率いて、中国共産党の空軍の創設に協力することになりました。1946年1月1日、東北民主連合軍航空総隊が吉林省の通化で設立され、1946年3月1日、航空総隊は航空学校と名を改めました。これが新中国初の航空学校「東北老航校」です。しかし、学校は成立当初に想像もつかないいろいろな困難にぶつかりました。
まずは当時の訓練生はほとんど農村から来た人で、それほど教育を受けていなかったのです。ですから、空を飛ぶというのはどういうことか理解させるのはなかなか難しいことでした。この問題を解決するため、日本人の教官は「実物教育法」を打ち出しました。
次は練習機すらありませんでした。ですから、中国の訓練生たちは初中級訓練をせずして、いきなり99式高等練習機による訓練を始めました。ところが、99式高等練習機はあくまでも練習機で、訓練生の実際の戦闘力を高めるためには、正真正銘の戦闘機を操縦しなければなりません。そのとき、東北航空学校にはアメリカ式のP51戦闘機がありましたが、その練習機はありませんでしたので、訓練が困難でした。中国の訓練生がP-51の戦闘機を操縦できるようにするため、修理所の技術者たちがそれに対する改造を行ないました。三番目大きな困難は1947年ごろから飛行機の燃料・ガソリンが段々なくなってきたことでした。どうすればいいのでしょうか?中日双方の技術者が共に努力した結果、アルコールを燃料として飛行機を飛ばすことを実現しました。東北老航校はいろいろな困難を乗越えて、新中国空軍の基礎を築いてきました。1946年から1949年までの3年間あまりに、東北航空学校は王海、劉玉堤、張積恵ら120人あまりのパイロットのほか、300人あまりの整備士を育て上げました。
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